①では野球ファンにおいて最も大切な要素というのが、理想の野球論という名の妄想であり、その妄想を言葉で説明できる能力というのが、野球という文化の醍醐味だ、ということを述べた。
②で筆者が最も溺愛しているサッカーという競技からその説明をしたい。
スタジアムに来るサッカーのサポーターというのは、様々な理由から貴重な時間と金を割いて試合観戦をする。
ある者は平日のストレスをゴール裏でバモることで発散し、ある程度は地元のチームの勝利を願い、またある者は戦術などの分析を追求する。
それぞれが形は違えど、サッカーを愛して止まない人間の鬱屈とした感情から愛情への昇華であり、それは色々な形があっていい。
しかしサッカーのサポーターなら、理想的なサッカーの形としてここは譲れないところだ、というキモの部分を持ってもらいたい。
それは様々な形で違っていていい。ある者は「1対1で絶対に負けるな」でもいいし「縦パスへの意識を躊躇(ちゅうちょ)するな」でもいい。
また「ウチの選手が相手に技術で負けても仕方ない。でも90分間走りまくって、走り負けるなっ!」でもいい。
とにかくピッチをつぶさに観察して「サッカーにおいて最も大事な部分はここだ」というモノを1つ見出してもらいたい。
そうして観戦したした試合には砂を噛むような敗戦や屁がもれるような凡戦もあっただろう。
しかし一見そうしたしょうもない試合にも意外な経験値が眠っていて、そうした試合での知識が自身のサッカー観の礎となる。
筆者はサッカーの価値というのは勝敗よりもサポーター1人1人が勝利に向かうプロセスを言葉にする部分に文化というモノが眠っているように見えてならない。
逆に「勝てば官軍」というのは単なる作業になって、正直面白くもなんともない。単なる卑しい人間のつまらない言葉だ。
サッカーを単なる興行から文化にするにはサポーターの1人1人が言葉を持つ必要がある。サポーター自身がサッカー文化の伝道師なのである。