映画「悪は存在しない」…本意は逆では?? | チャコティの副長日誌

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主役になれない人生を送るおじさんの心の日記.
猫と映画、絵画、写真、音楽、そしてF1をこよなく愛する暇人.
しばし副長の心の彷徨にお付き合いを….



製作年:2023年 製作国:日本 上映時間:106分



しれっと公開された濱口竜介監督の新作.聞けばベネチア国際映画祭での銀獅子賞を
受賞の作品だと.柏キネマ旬報シアターは平日朝一番の上映なのに沢山の観客が…(汗).
想定外の混み具合で観賞したのは本年度累積102本目.
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「ドライブ・マイ・カー」でアカデミー国際長編映画賞、カンヌ国際映画祭脚本賞、
「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞するなど
国際的に高く評価される濱口竜介監督が、カンヌ、ベルリンと並ぶ世界3大映画祭
のひとつであるベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)受賞を果たした
長編作品.

「ドライブ・マイ・カー」でもタッグを組んだ音楽家・シンガーソングライターの
石橋英子と濱口監督による共同企画として誕生した.

自然豊かな高原に位置する長野県水挽町は、東京からも近いため近年移住者
が増加傾向にあり、ごく緩やかに発展している.代々その地に暮らす巧は、娘の
花とともに自然のサイクルに合わせた慎ましい生活を送っているが、ある時、
家の近くでグランピング場の設営計画が持ち上がる.

それは、コロナ禍のあおりで経営難に陥った芸能事務所が、政府からの補助金
を得て計画したものだった.しかし、彼らが町の水源に汚水を流そうとしている
ことがわかったことから町内に動揺が広がり、巧たちの静かな生活にも思わぬ
余波が及ぶことになる.

石橋がライブパフォーマンスのための映像を濱口監督に依頼したことから、
プロジェクトがスタート.その音楽ライブ用の映像を制作する過程で、1本の
長編映画としての本作も誕生した.2023年・第80回ベネチア国際映画祭
では銀獅子賞(審査員大賞)を受賞したほか、映画祭本体とは別機関から
授与される国際批評家連盟賞、映画企業特別賞、人・職場・環境賞の
3つの独立賞も受賞した.

以上は《映画.COM》から転載.
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濱口竜介監督の作品は9割5分は観ている.名作「偶然と想像」辺りから
キネマ旬報シアターが濱口竜介監督特集を2回位組んでくれたので、
それこそ大学時代の習作まで含めてほぼ全作品を観賞した.

その結果思った事は、濱口作品当たり外れが存在すると.
言いたいことは判るけど、頭でっかちの作品がたびたび存在する.

「偶然と想像」みたいに各小節がきちんと起承転結している作品は
判りやすいし、共感、感動が生まれやすい.そうでない屈折しすぎの
作品も数多いのだ.頭の良さは判るが、表現が付いて行かない印象.
脚本の練りが不足しているのだ.

さて、本作は…、生まれの悪さ(音楽担当:石橋英子のプロモビデオ作成)と、
ド素人役者の起用とか、脚本の難解さとか、濱口監督の良くない部分が
目立ってしょうがない.

自然環境と開発、地元民とよそ者といったテーマは昨年日本でも公開された
欧州発の作品「ヨーロッパ新世紀」や「理想郷」が印象に残っている.
問題意識と物語類型が国境を越えて共有されていると考えるべきであろうか.

本作はこれらのテーマに加えて、野生動物と人間の関係をもモチーフにしている.
具体的には、鹿の生活と人間の営みの関係性である.
本作中に2回ほど、鹿撃ち(増えすぎた鹿の駆逐作業)の音が聞こえるシーンが
ある.自然の驚異に対する人間の一方的な所業である.登場人物たちはこれを
否定するでも無く、肯定するでも無い姿勢を見せる.

経営難に陥った芸能プロダクションが計画するグランピング施設は、鹿の水場
への通り道に位置する.主人公功:大美賀均と芸能プロダクションの高橋:
小坂竜士と薫:渋谷采郁はグランピングの柵の高さが3mは要る…なんて本質
から離れた次元の会話をしているのには苦笑する.

相変わらず濱口流の車中シーンで、芸能事務所の2人が鹿の水場について
余りにも無関心なのを知った途端に匠の顔に影がさす、あのシーンがこの作品
の本質を語っているのではないかもしれない.

無知や無関心はそれ自体確かに悪でなないが、それを基にして行動に移す輩は
「悪」として存在すると思うのだ.本作の表題は濱口竜介監督の本意ではなく、
逆説的表現と解釈する.
 

 

冗長に感じさせる長回し、狭い車内でのシーン、車とともに動き出すカメラ…、
濱口流の手法は健在だ. 冒頭の森を見上げ続けるシーンと供に、信州の
閉鎖的?な自然環境、住環境を表現するのは相応しいのかも知れない.
好きか嫌いかは全く別問題だが…(苦笑).

脚本的アラをあげだすと止まらなくなってしまう.
主人公功とその娘花:西川玲の二人暮らしの原因は?妻は写真だけの出演.
死別には見えない.愛想尽かされ逃げられたか?芸能プロダクションの二人に
グランピングの管理人業を依頼された時、これでも忙しい、金には困っていない
と答えた時の表情の暗さには絶句させられた.

学童に迎えに行く時間を忘れるのも子供を一人で帰すのも有ってはいけない.
児童を独りにしての事件が今までどれだけあったか.
グランピングの説明会も正論ばかり、きれい事ばかりであり得ない.実際は
理屈じゃなく、ただ嫌なものは嫌という感情むき出しのものであるのに.
さびれた避暑地の地域住民の根性の描き方が不十分だ.

芸能事務所の社長もコンサルも、あまりにも分かり易い俗っぽい悪人.
“悪は存在している”ではないか. 芸能プロダクションの二人の会話、悪人では
無いことは判るが、車の中でお互いのこと全然知らないのに婚活の話をするのが
笑止千万.描き方が不全だ.
 

 

芸能プロダクションの高橋、素は善人なのは良いが、薪割りをちょっとやっただけで、
人生観が変わるとかグランピングの管理人をやってもよいと、まるで狂言回し役.
ラストでは、意味もなく主人公功に首を絞めあげられて気絶する始末….

問題のラストシーン.手負いの鹿を目前にした娘が置かれた状況を目にして、
父親功は止めに行こうとする高橋を羽交い締めする行動に出る.
この展開は、保護者としてのリアリティーよりも劇的効果が優先された純然たる
フィクションだと感じた.ウケ狙いと言っても良いかもしれない.

不可解なのは、父親がそんな愚かな行為の最中に、娘は傷付けられていたこと.
あわてて娘を抱いてその場を逃げ出す功の姿を、またも定点の長回しで追うカメラ.
いい加減にしてほしいと思っていたら、エンドロールに.

ラストのインパクトを高く評価する人も居るのだろう.
私は何やら梯子を外されたような思いのラストだった.

この作品を通して感じたのは、全編を覆う不穏なというか不吉な感じである.
これは挿入される何か不安定な感じの音楽にもよる.石橋英子の音楽は不似合い
に思えるのだが、その音楽が基で作られたというこの作品の存在価値に繫がっている?

我々の生きている世界は、表面上は穏やかであってもひと皮剥けば内側には
薄暗いものがうごめいている.それは一言でいえば「悪意」という概念で説明できる.
そういった世界観の中で、我々は知らず知らずのうちに我々の社会の作り出した
悪意の固まりに絡み取られている.「悪は存在しない」と題をつけた瀧口監督の
逆説的本意はそこに有るのではと思った.