田中正造の生涯~真の文明は人を殺さざるべし | 本日も一日一歩

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仕事の合間に、街歩きや読書をしています。見たこと、感じたこと、考えたことを少しづつでも綴っていきたいと思います。

 田中正造(たなかしょうぞう)は、足尾鉱毒問題の解決のためにその人生の全てを捧げたといってもいい人物である。

 天保12年(1841)、田中正造は現在の栃木県佐野市に生まれた。

 栃木市藤岡歴史民俗資料館の一角に、田中正造の晩年の姿の銅像がある。

 銅像の彫塑を制作したのは、富山市の砂原放光である。

 

 

 古河財閥創業者、古川市兵衛(ふるかわいちべえ)が経営する足尾銅山は、銅の生産により明治期の日本の経済成長に大きく貢献した。

 一方で、銅の製錬過程で工場から流れ出る水には鉱毒が含まれており、渡良瀬川(わたらせがわ)下流域はその鉱毒により水質汚染・土壌汚染が引き起こされ、稲作の生育阻害や子供の死亡率の増加など広範囲な公害を引き起こした。

 これが足尾鉱毒問題である。

 明治23年(1890)8月、渡良瀬川はこれまでにない大洪水を引き起こし、足尾銅山の鉱毒被害が流域一帯に大きく広がった。

 

 

 明治24年(1891)、前年に衆議院議員に当選した田中正造は、被害を受けた農民のために帝国議会で足尾鉱毒問題を質問に取り上げ、足尾銅山の操業停止を求める演説を行った。

 政府は、足尾銅山と鉱毒被害との因果関係を認めない姿勢であったが、明治29年(1896)に再び大洪水が発生、鉱毒被害地の農民が大挙して東京に陳情(当時は「押出し」と言った)を行う事態に発展した。

 ようやく鉱毒予防の世論が高まると、明治31年(1895)政府は足尾銅山に対し、改善措置を命令。古川市兵衛は、政府の命令に従い、排水の濾過池・沈殿池や堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置を行った。

 しかし濾過池・沈殿池は翌年には大雨により決壊し、再び下流に鉱毒が流れ出した。煙突の脱硫装置も、当時の技術レベルでは十分には機能せず、効果は薄かった。

 田中正造は、この間、繰り返し国会で鉱毒被害を訴えたものの解決を果たせず、もはや明治天皇への直訴しかないと、覚悟を決めて議員を辞任。
 そして明治34年(1901)12月、国会開会式の日、田中正造は黒の羽織、はかま姿の正装で鉱毒被害の状況を書いた直訴状を高く差し上げながら、明治天皇の乗る馬車をめがけて駆け寄った。
 田中正造は、直ちに警備の警官に捕まってしまい、直訴は失敗した。

 


 ところがこの事件がきっかけとなって鉱毒問題に世論が盛り上がり、慌てた政府は鉱毒調査会を作ることになった。

 そしてこの政府の調査会が示した計画は、渡良瀬川などの河川が合流する地点の谷中村全域を政府が買収して遊水池を作り、洪水を防ぐというものだった。

 この計画に対して、田中正造は、議員辞任後に自分が住んでおり、鉱毒反対運動の中心地だった谷中村を廃村にすることにより、運動の弱体化を狙ったものであると主張し、遊水池計画に猛反対した。

 田中らの反対もむなしく、政府により谷中村は全域が強制買収され、明治39年(1906)に廃村が決定。多くの村民が移転に応じる中、一部の立ち退かなかった村民の住居は翌年強制破壊された。

 田中正造は、遊水池計画は鉱毒防止の解決にならないこと、そして谷中村の復活を、何度も国や県に訴えたが聞き入れられず、明治44年(1911)に現在の渡良瀬遊水地が完成、旧・谷中村は水没した。

 賛同者も少数になった絶望的な状況の中でも最後まで繰り返し谷中村の復活運動に身を捧げた田中正造は、大正2年(1913年)、病に倒れ亡くなった。享年73歳。

 田中は、財産の全てを鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときはほぼ無一文だった。

 遺品は、黒の頭陀袋と合切袋が各1つで、袋の中身は書きかけの原稿、小石3個、日記帳3冊と新約聖書、鼻紙少々だったという。

 羽織はかま姿の田中正造が見つめる先には、変わり果てた谷中村、すなわち今の渡良瀬遊水地がある。

 

 

 群馬県館林市にある田中正造記念館を見学した。

 

 

 NPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館が運営している。

 入場無料である。

 

 

 渡良瀬川と足尾鉱毒問題、そして田中正造の生涯について、手作りのパネルで解説してくれる。

 記念館の庭には、足尾銅山と渡良瀬川、その流域のジオラマがあった。

 

 

 「道の駅かぞわたらせ」に行き、渡良瀬遊水地を眺めた。

 中央奥の山は筑波山。

 

 

 解説パネルがあった。

 上空から見た渡良瀬遊水地は、ハート型になっている。

 

 

 最近、歩いて行ける三県境があることが有名になっているので行ってみた。

 

 

 「道の駅かぞわたらせ」から徒歩10分。

 ここが埼玉県、栃木県、群馬県の「三県境」地点だ。

 三県境は全国で40か所以上あるそうだが、そのほとんどが山の山頂、尾根や河川上にあり、簡単に歩いて行ける場所にあるのはここだけだ。

 

 

 田中正造は、ほぼ同じ時代を生きた渋沢栄一とは、その生き様は陰と陽のように大きく違っている。

 田中は常に、弱い人々、少数の人々に与して、最期は無一文で生涯を終えた。

 足尾鉱毒問題と田中正造の行動に関しては、現在、懐疑的な評価をする人もいるようだが、私は、田中が明治45年(1912)6月17日の日記に書いた言葉に感銘を覚えた。

 真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。

 

 後日、佐野市にある田中正造ゆかりの地などを訪れる予定だ。