能登半島の旅第2日目は、珠洲市中心部にある「道の駅すずなり」から始めました。
かつてここには、珠洲駅がありました。
鉄道廃線後は、駅のホームだけが往時の姿を残しています。
道の駅の前の石碑、「益谷秀次先生顕彰碑」と彫られています。
益谷秀次(ますたにしゅうじ)は、地元石川県出身の政治家で衆議院議長も務めた人です。
碑の銘板には、昭和39年、鉄道能登線全線開通にあたりとして、以下の内容が記されています。
「益谷秀次先生は明治21年宇出津町に生まれ」、
「郷土を愛し能奥の大開発に努め地方多年の願望である鉄道を敷設しその他県下の政治経済産業文化の進展に寄与貢献された功績は枚挙にいとまがない」、
「先生こそはまことに邦家の柱石郷土の恩人後世の亀鑑たるべき偉大な政治家である」、
「先生の顕彰碑を建設しその高風と偉績を末永く後世に伝えんとするものである」
地元悲願の鉄道敷設に尽力した方を、格調高く顕彰しています。
珠洲市役所近くの春日神社に万葉歌碑があるとのことで来ました。
これですね。
素朴な歌碑です。
珠洲市内、柳田神社前の柳田児童公園内にも、同じ歌の碑があります
珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば
長浜の浦に月照りにけり
大伴家持 巻17-4029
珠洲の海に朝早く舟を出して漕いで来たならば、この長浜の浦にはもう月が照り輝いていた、という意味です。
見附島に来ました。
近くにきれいな石の句碑がありました。
月に鳴く葭切(よしきり)もまた能登荒磯
静夫
作者、辻口静夫氏は、石川県出身の方のようです。
能登半島の中ほどに位置する穴水町に来ました。
穴水湾(七尾北湾)は穏やかな海です。
穴水町の長谷部神社にも歌碑があるとのことで寄りました。
歌碑の裏面に、「天平20年(748)春、能登を訪れた越中守の大伴家持は、当地で月の光を愛で、歌碑の和歌を詠んだ」と書かれています。
また「『長浜の浦』は、波静かな穴水湾に比定される」、とも書かれています。
大伴家持一行は、越中から能登半島の先端、珠洲まで巡察し、そこから船で越中に帰ったようです。
「長浜の浦に月照りにけり」との長浜の浦は、氷見という説もありますが、照る月の美しさが似合うのはやはりこの穏やかな穴水湾ではないかと思います。
七尾市の瀬嵐(せあらし)という所に来ました。
この七尾西湾に浮かぶ前方の島は、種ヶ島という島です。
そして、見えませんが種ヶ島の先に机島(つくえじま)という小さな島があります。
犬養孝先生の「万葉の旅 下巻」232頁に、机島が出てくる歌があります。
所聞多禰(かしまね)の 机(つくえ)の島の しただみを
い拾(ひり)ひ持ち来て 石もち つつき破り
速川(はやかわ)に洗ひ濯(すす)ぎ 辛塩(からしほ)に こごと揉(も)み
高坏(たかつき)に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児(めづこ)の刀自(とじ)
父にあへつや 身女児(みめこ)の刀自
巻16-3880 作者未詳
犬養先生は、この歌は能登の子どもたちのあいだで歌われた伝承歌謡、童歌(わらべうた)であり、それを大伴家持が能登の巡行の際、採取したものである、と述べています。
また犬養先生は講演の中で、こんな話をされました。
病気で入院されていた犬養先生の奥様が退院されて、久しぶりの夫婦旅行として和倉温泉からこの机島に船を出してもらい、島の浜にゴザを敷いてお茶を点てたりして半日ほど過ごしたこと。
そしてその奥様が亡くなってから、犬養先生及び先生が中学校教諭時代の教え子で作曲家の黛敏郎(まゆずみとしろう)氏、薬師寺の高田好胤(たかだこういん)管長の3人で能登に講演で訪れた際、3人で机島にわたり、黛氏と高田管長にこの万葉の童歌のことを話していたら、犬養先生はかつてここに奥様と一緒に来たことを思い出し、こみ上げるものを我慢していたがついに爆発し突然大声を出して号泣してしまったこと。
それを見た黛氏と高田管長の提案で、犬養先生と奥様との思い出の地、机島に万葉歌碑を建立しようとなり、それが実現した、という話でした。
残念ながら現在は、特別に船をチャーターしなければ、机島には渡れず、したがってその万葉歌碑も見ることはできません。
いつか、何かの機会に机島に行って犬養先生が揮毫した歌碑を見てみたいと思います。
能登島(のとじま)に来ました。
能登島は、能登半島の七尾湾にある大きな島ですが、橋が建設されたため、車で行くことができます。
のとじま水族館に寄りました。
ジンベエザメが悠々と泳いでいます。
小さな魚も、大きなエイも同じ水槽で仲良く泳いでいます。
自然の造形美さえ感じさせるクラゲ。
いつも干物でしか見ないホッケです。
かしこさに驚くイルカショー。
のとじま水族館にある犬養先生揮毫の万葉歌碑です。
昭和58年に石川県が建立したものです。
鳥総(とぶさ)立て 船木(ふなき)伐るといふ 能登の島山
今日見れば 木立繁しも 幾代神(いくよかむ)びそ
大伴家持 巻17-4026
この歌碑のことも犬養先生が、講演の中でお話していました。
この歌碑の除幕式で水族館に先生が招かれた際、同席していた石川県知事が水族館の館長に、せっかくここに犬養先生の万葉歌碑が出来た、「幾代神びそ」なのだから、水族館にもっと木を植えて森林の中の水族館にしたほうがよい、と言ってくれたというエピソードです。
歌碑は、水族館中庭にあるとの話で、ちょっと見つけるのに少し苦労しましたが、のとじま水族館から食堂街に行くゲートを出た場所にあります。
石川県から富山県に入りました。
氷見市の阿尾(あお)という地域に、大伴家持の勧請と伝えられる榊葉乎布(さかきばおふ)神社があります。
鳥居をくぐった先に万葉歌碑があります。
英遠(あを)の浦に 寄する白波 いや増しに
立ちしき寄せ来 東風(あゆ)をいたみかも
大伴家持 巻18-4093
英遠の浦に寄せる白波が、次第に増してしきりに押し寄せてくるのは、東風が激しいからであろうか。
家持が詠んだ「英遠の浦」は、ここ阿尾周辺のことだそうです。
東風を「あゆ」と呼ぶのは、越中の方言です。
富山県高岡市に入りました。
雨晴海岸と雨晴岩です。
いつの間にか海岸すぐそばに、立派な道の駅が出来ていました。
大伴家持の歌碑と松尾芭蕉の句碑が並んで立っていました。
馬並(な)めて いざ打ち行かな 渋谿(しぶたに)の
清き礒廻(いそみ)に 寄する波見に
大伴家持 巻17-3954
わせの香や 分入(わけいる)右は
有磯海(ありそうみ)
松尾芭蕉
万葉集に「渋谿(しぶたに)」と詠まれたこの絶景の雨晴海岸は、芭蕉が「おくの細道」で有磯海と詠んだ由緒地でもあります。
道の駅の真新しいテラスには、この富山湾は2014年に、世界の選ばれた38湾が加盟している「世界で最も美しい湾クラブ」への加盟が承認されたことが書かれていました。
能登半島一周の旅の最後、昨年訪れた高岡市万葉歴史館に再度寄りました。
この日は「即位礼正殿の儀」のお祝いとして、入館無料となっていました。
万葉歴史館で、大伴家持の能登半島の巡察行程図を復習しました。
万葉歴史館近くの寺井の井戸跡に寄ってから、帰りの途に着きました。
私の好きな歌です。
もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが 汲くみまがふ
寺井(てらゐ)の上の 堅香子(かたかご)の花
大伴家持 巻19-4143
堅香子は、今のカタクリのことで、万葉集で堅香子が詠まれているのはこの一首のみです。
2日間、約1200kmの能登半島の旅を終えました。