能登半島(第1日目) | 本日も一日一歩

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仕事の合間に、街歩きや読書をしています。見たこと、感じたこと、考えたことを少しづつでも綴っていきたいと思います。

令和元年10月21日と22日に、1泊2日で能登半島を一周しました。

初日、自宅を午前3時20分に出発しました。

高速道路の深夜割引は、午前4時までに入らなければならず、今回は関越道花園ICに何とか間に合いました。

未明の車の中では、犬養孝先生の万葉集講演CDのうち、大伴家持と越中に関係する所を聞きながら、気分を盛り上げていきました。

夜が明け、関越道から北陸道に入り、米山SAで休憩しました。

 

 

日本海が望めるSAです。

奥に見えるのは、東京電力の柏崎刈羽原子力発電所です。

7基の原子炉を有する、世界最大の原子力発電所ですが、現在全て稼働停止中です。

 

 

米山SAの庭には、芭蕉の句碑があります。

 

草臥(くたぶれ)て 宿かるころや 藤の花
 

歩き通しで疲れ切った身と心が、美しい藤の花が癒してくれる、そんな芭蕉の気持ちに大いに共感できる句です。

 

 

蓮台寺PAでも一休み。

 

 

翡翠(ヒスイ)の原石に、万葉の歌が刻まれています。

 

 沼名川(ぬながわ)の底なる玉

 求めて 得し玉かも
 拾(ひり)ひて 得し玉かも
 惜(あたら)しき君がの

 老ゆらく惜(を)しも   巻13-3247 作者未詳

 

 

古代の糸魚川・西頸城を治めていた奴奈川姫(ぬながわひめ)の像です。

古事記には、出雲国から八千矛の紙(大国主命)が奴奈川姫に妻問い(求愛)したときの歌謡が記されているそうです。

 

 

不動寺PAで最後の休憩をしました。

 

 

PAの庭には、芭蕉「おくの細道」の句

 

塚も動け 我が泣く声は 秋の風

 

 

高速道路を降りて向かったのは、石川県の羽咋市(はくいし)の千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイです。

国内で唯一、波打ち際すぐの砂浜をドライブできる全長約8kmの長い海岸です。

もちろん無料です。

 

 

千里浜の砂はきめ細かく、砂の1粒1粒が海水を含んで引き締まって硬くなるため、自動車が走行可能になるのだそうです。

確かに、砂に手を当ててみると硬くしまっています。

 

 

奈良時代、ここ能登は越中の国に所属していました。

天平18(746)年の秋、その越中守として国司に任ぜられたのは大伴家持です。

29歳の青年貴族は、赴任当初、病気になり臥せっていたようですが、病気が平癒した天平20年の春、国司の任務である「出挙(すいこ)」の状況視察のため、能登を巡察します。

「出挙」とは、春に国司が農民に強制的に稲籾を貸し与え、秋の収穫のとき5割ないし3割の利息をつけて返納させるもので、いわば年貢のようなものです。

大伴家持一行は、現在の富山県高岡市にあった越中国府を出発し、氷見から山を越えて、ここ羽咋の海に到着しました。

なぎさドライブウェイの脇に、その際の家持の歌碑がありました。

平成元年にロータリークラブが建立したものです。

 

 之乎路(しおじ)から 直(ただ)越え来れば 羽咋の海

 朝凪(あさなぎ)したり 船梶(ふなかじ)もがも

                      巻17-4025

 之乎路の山を越えて来てみれば羽咋の海が広がっている

 朝凪ぎで穏やかな海である
 ここに船と梶があったならば、漕ぎ出してみたいものだ

といった意味です。


 

実際に家持が見た羽咋の海とは、当時まだ干拓されていない広々とした邑知潟(おうちがた)だったようです。

千里浜レストハウスの駐車場の奥にも、同じ歌碑があります。

昭和37年に羽咋市郷土研究会が建立したものです。

 

 

隣に寄り添うように、新元号「令和」の考案者である中西進先生の歌碑がありました。

 

 大伴家持卿に和す
 靺鞨の 凍風去りし 海原に

 漲りわたる 大和の真春
            中西進書

 靺鞨とは、難しい漢字ですが「まっかつ」と読むのでしょう。日本の奈良・天平期に唐の北部にあった国の名前です。

 

 

大伴家持が能登を巡察したときに、まず参拝したという気多大社に行きました。

 

 

気多大社の境内隅に、折口信夫と養子折口春洋の父子の歌碑がありました。

折口信夫(おりくち しのぶ、1887(明治20)年- 1953(昭和28)年は、日本の民俗学者、国文学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもありました。

刻まれている文字が小さいので写真ではわかりにくいのですが、右が釈迢空の歌碑、

 氣田のむら 若葉くろずむ時に来て

 遠海原の 音を聴きをり

左が折口春洋の歌碑

 春畠に 菜の葉荒びし ほど過ぎて

 おもかげに師を さびしまむとす

 

 

 

気多大社からさらに北上し、能登金剛に来ました。

 

 

巌門です。

 

 

 

 

険しい断崖と荒波が作り出した奇岩が続いています。

 

 

能登金剛は、松本清張の推理小説「ゼロの焦点」の舞台となりました。

これにより、観光地として広く知られることになったことから、作者の松本清張に依頼して建立した歌碑があります。

 

 

雲たれて ひとりたけれる 荒波を

かなしと思へり 能登の初旅

 

 

輪島市の剱地という漁村まで来ました。

大伴家持は、こちらも巡察したようで、歌碑があります。

 

 妹にあはず 久しくなりぬ にぎし川
 清き瀬ごとに 水占(みなうら)はへてな

         巻17-4028

 

 

歌碑のすぐ目の前を、にぎし川が流れています。

 

 

季節外れの昼咲月見草が咲いていました。

 

 

トトロ岩に見える権現岩。

 

 

奥能登を代表する観光スポット輪島市の白米千枚田(しろよねせんまいだ)です。

 

 

棚田の数は、実際に1004枚あるそうです。

 

 

夕方からはライトアップするそうです。

実用的な田んぼというよりもはや観光目的の棚田ですね。

 

 

曽々木海岸にある「窓岩」です。

 

 

ゴジラ岩です。

 

 

「奥能登絶景海道」と名づけられた道路をひたすらドライブしました。

 

 

季節柄、日本海と点在する集落は寂しそうです。

 

 

バスも通っているようですが、

 

 

1日1本しかバスは来ないようです。

 

珠洲(すず)市に入りました。

「すず」という名の響きはとても魅力的です。

このあたりは、珠洲市高屋町です。
1975年、珠洲市は原子力発電所の誘致を石川県を通じて国に申請します。その動きを踏まえ、翌年関西電力、中部電力、北陸電力が共同で、原子力発電所を建設する構想を打ち出しました。

しかし建設反対派の地元住民の運動が高まり、珠洲市は原発推進と反対で町を二分する激しい闘争となりました。

 

 

当時、私は小学生で秋田県の田舎に住んでいました。

実家で取っていた河北新報の一面を「珠洲」「原発」という見出しが何度もあったのを記憶しています。

珠洲市では、市長選での推進派・反対派の争いが繰り返され、市長選挙の無効が裁判となり、最高裁で確定するなど、原発計画は長い間、この地域と住民を翻弄しました。

そして2003年、関西・中部・北陸電力の3社長が珠洲市役所を訪れ、産業構造の変化、景気低迷を踏まえ、「珠洲原発の凍結」を申し入れたのです。

ここに、28年間に及んだ珠洲原発計画は事業者の撤退という形で収束しました。

 

 

木ノ浦展望台にある案内図です。

 

 

ほとんど行き違う車もありません。

 

 

珠洲市狼煙(のろし)という地区に来ました。

道の駅狼煙に車を停め、10分ほど歩くと禄剛埼灯台(ろっこうさきとうだい)となります。

まさに能登半島最先端の地です。

 

 

振り返ると、夕日に照らされた雲が燃えるように輝いていました。

能登半島の旅、第一日目はこれで終了です。