中山道あるき旅(第一日目① 日本橋-お茶の水) | 本日も一日一歩

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仕事の合間に、街歩きや読書をしています。見たこと、感じたこと、考えたことを少しづつでも綴っていきたいと思います。

令和元年11月2日(土曜日)、始発電車に乗って、東京駅で降りました。

日本橋のビル街は、来るたびに新しいビルが出来ていて変貌を遂げています。

 

 

朝、6時40分、日本橋に着きました。

でも、この日本橋は変わらない姿です。

 

 

日本橋は、明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋です。

橋は、清掃してくれたせいか、割合きれいです。

 

 

「橋の広場」の花壇

 

 

最近出来た日本橋観光案内所です。

 

 

日本橋の道路中央に埋め込まれた「日本国道路元標」

字は当時の首相、佐藤栄作(現首相安倍晋三の大叔父)の筆です。

 

 

「日本橋魚市場発祥の地」記念碑です。

乙姫の像が、膝の上に唐草模様の風呂敷で包んだ箱みたいなものを置いています。

何でしょうか?

 

 

橋の北詰にある道路原票のレプリカです。

これも唐草模様の風呂敷で包まれています。

 

 

日本橋三越です。

 

 

三越本店の正面入り口です。

 

 

入口を守る左右一対のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔下のライオン像を模し模造したものだそうです。

ライオン像の前にも、唐草風呂敷に包まれた箱のようなものが・・・。

 

 

谷川俊太郎の「野生の尊厳」という詩のレリーフがありました。

 ブロンズの肌の冷たさの奥に

 ひそかに脈打つ心臓を隠している

 手で触れることはできないが

 心でそれに触れることはできる

 

 

唐草模様の風呂敷は、これでした。

 

 

日本橋室町も新しいビルが続々と完成しています。

 

 

「今川橋のあとどころ」の碑です。

ここにかつて竜閑川があり、今川橋が架かっていました。

日本橋から来て、始めて渡る橋でした。

 

 

天亀そばで、かき揚げそばを食べました。

まだ7時前の土曜日なのに、客が多くて店内で並んでいました。

 

 

JR神田駅前を通過。

 

 

中山道から外れて、岩本町の方に寄り道しました。

繁栄お玉稲荷です。

江戸時代、この地域に「桜が池」という池がありました。

上野の不忍池よりも大きかったようです。

この桜が池のほとりにあった茶店に「お玉」という美しいと評判の女がいました。

そのお玉に惚れた男が二人いて、二人ともお玉に求婚したのです。

お玉は、二人の思いに悩みかねて、ついに桜が池に身を投げてしまいました。

それから桜が池は、お玉が池と呼ばれるようになったそうです。

万葉集の巻9の菟原処女(うないおとめ)の伝説によく似た話です。

 

 

お玉が池周辺には多くの史跡があります。

こちらは、お玉が池畔にあったという北辰一刀流千葉周作の「玄武館道場跡」です。

 

 

ここは、かつて千代田区立千桜小学校があったところです。

学校統廃合で千桜小学校は廃校になり、その跡地には高層マンションが立ち、敷地の一角にこれらの碑があります。

 

 

「右文尚武」と書かれた石碑があります。

碑の右半分に、江戸時代の儒学の大家、東條一堂の瑶池塾があったこと、

左半分に、幕末の剣道の達人、北辰一刀流の千葉周作の玄武館があった、という文が刻まれています。

 

 

千桜小学校創立100年を祝う歌「宇宙船千桜号」の碑です。

碑は、昭和56年に建てられたものです。

しかし今、その小学校校舎は跡形もなく、この碑だけが残されています。

 

 

神田須田町の交差点に来ました。

この一帯は、明治45年に開業した万世橋(まんせいばし)駅の駅前広場がありました。

その広場には、明治の軍人広瀬武夫(ひろせたけお)中佐の銅像がそびえ立っていたそうです。

広瀬中佐は、日露戦争で旅順港の出入り口に艦船を自ら沈め、港内のロシア艦隊を封じ込めようとする旅順港閉塞作戦の指揮官です。

作戦は成功し、日本軍の戦争の勝利に大いに貢献しましたが、広瀬中佐と部下(杉野孫七兵曹長)は作戦後、帰還できず戦死しました。

 

 

JR神田万世橋ビル前に、当時の万世橋のにぎわいについての案内板があり、そこに広瀬中佐の銅像の写真がありました。

軍神と称えられた広瀬中佐だけに巨大な像です。

足元の座っている像は、杉野孫七兵曹長の銅像でしょう。

 

 

セブンイレブンのイートインで休憩しました。

この二冊の本を参考にしながら、歩きました。

 

 

万世橋駅の跡は、マーチエキュート神田万世橋という商業施設になっています。

 

 

昌平橋を渡りました。

 

 

神田明神です。

御祭神には、平将門(たいらのまさかど)も入っています。

 

 

お参りをしました。

 

 

神田明神境内にはいろいろなものがあります。

こちらは、さざれ石。

 

 

明治期の俳人であり、実業家、政治家でもあった角田竹冷(つのだちくれい)の句碑。

 白うをやはばかりながら江戸の水

 

阿部筲人(あべしょうじん)の句碑

 山茶花の散るや己の影の中

山茶花(さざんか)の花びらが、冬の陽光の中、ひらひらと落ちていく姿が見に見えるようです。

 

 

銭形平次の碑がありました。

子供の頃、よくテレビで見ていました。

平次役は大川橋蔵、その妻は香山美子、主題歌は舟木一夫でしたね。

「男だったらひとつにかける~」という主題歌が好きでした。

平次の家は、神田明神下という設定でした。

 

 

碑の台座は、巨大な「寛永通宝」となっています。

投げ銭を投げるありし日の大川橋蔵さんの姿が目に浮かびます。

 

 

昨年オープンした神田明神文化交流館の入口にこんなモニュメントがありました。

海の彼方から、小さな小舟に乗ってくる「えびす様」という彫金で、金工作家で現文化庁長官の宮田亮平の作です。

 

 

湯島聖堂です。開門時刻にはまだ早かったため入れず。

 

 

聖橋(ひじりばし)は工事中でした。

私は、小学生の頃からさだまさしの歌が好きでした。

中でも「檸檬」の、センチメンタルな雰囲気がとても好きでした。

「食べかけの檸檬、聖橋から放る」とか、「快速電車の赤い色がそれとすれ違う」「各駅停車の檸檬色がそれを噛み砕く」という歌詞は、電車に乗ったこともない田舎の少年に東京へのあこがれを増幅させてくた歌でした。

 

 

聖橋からお茶の水駅を見下ろしました。

奥を走るのは、地下鉄丸ノ内線。手前のホームはJR中央線です。

 

 

ニコライ堂の近くに寄りました。

東京復活大聖堂教会が正式名称です。

午後1時から3時30分まで、300円で聖堂内を拝観できるようです。

 

 

ニコライ堂の鐘です。

藤山一郎が「東京ラプソディー」で「ニコライの鐘もなる」と歌っていたのが懐かしいです。

 

 

聖橋まで戻って、橋の上から水道橋方面を眺めました。

手前は、東京医科歯科大学病院、奥のビルは順天堂医院です。