【激務と多趣味のはざまで03】東武鉄道’02頃~’09、何かと気難しかった北関東と東武電車の記憶 | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

ふと、HDDのデータ整理しながら思いついた【激務と多趣味のはざまで】シリーズ。

まずは、西武鉄道について2回に分けて書いてみた。


関連して、【90's DOOR】も久々に書いた。


後から、あのデータも載せときたかったかなぁ…とかも出てきたけど。

とりあえず、あれこれやっていた割にはちょいちょい記録していたんだというのは分かった。

その割合は、今と比べてみたらとんでもなく少ないのだけど。

あれ以降、空いた時間や気力、体力を見計らって発掘を進めているが、特に2000年以降になると

36枚撮りフィルム3本中鉄道撮影が僅か2〜3コマとかのものもあった。

当時ライフワークにしていたライブ撮影に注力していたことが窺えたものも多数あった。


今回取り上げる東武鉄道も、最初に乗ったのが佐野線葛生までとなかなかのボリュームだったが

その後高校時代は、いずれ【90's DOOR】でも取り上げるが(宣言しとかないと書かなそう)

学校行事で春日部経由で東武野田線で清水公園までは行ったけど、そこからはせいぜい亀戸線と

大師線を踏破した程度で、位置柄取り立てて利用する理由が無く全く進まなくなってしまった。

特に日光線方面は様々な外的要因もあり、南栗橋以北は長く手付かずになってしまった。


しかし、2001年8月に入ると少しだけ情勢が変わってくる。

当時見に通っていたバンドが、群馬県太田市でライブイベントに出演することになったのだ。

このバンドを巡っては、この3ヶ月半程前には大阪まで遠征しており、行かないという選択肢は

当時の自分には存在してなかったと思われ、仕事の超激務(2ヶ月で8kgも痩せていた!)から

少しだけ解放されていた時期だったこともあって、カメラを抱えて撮影に赴いていた。

このため、手元に残る写真はほぼ全てがその時のライブの模様である。


そんな時に、イベントでMCもやっていたある女性と知り合った。

話すうちに興味を持ち、当人も歌い手ということもあり、以来たびたび足を運ぶことになった。

だがその人の活動範囲が、基本的に群馬県太田市のコミュニティFMやその周辺。

稀に池袋や四ツ谷(この折、四谷天窓にも初訪問していた)の都内や、近県でさいたま新都心や

水戸、果ては新潟の豊栄でライブをやっていたこともあったが、特に伊勢崎線だと太田や、当時

「スノーヴァ足利」という室内スノーボード場が駅前にあった野州山辺駅にも降りている。

実はスノーヴァは、2002年6月末には僅か2年足らずの営業期間で閉鎖されたらしく…

地元周辺の人に聞いても、スノーヴァがあった頃を知る人は珍しいらしい。


なお、2003年5月の新潟遠征以降、当人の結婚を機に一時活動休止状態になり、群馬方面からは

時折“大回り”をしていたJR八高・高崎線界隈以外は再び疎遠になっていくこととなった。

ちなみにその人とは、考え方の相違などで度々衝突も起きており…

そう、当時から割と本音で意見をぶつけ合うことが多かった尖った自分だったのです。

別のバンドメンバーからは、


隊長の意見は、当たっているだけにキツい


とも言われたこともあったし…σ(^_^;)

特に一度は、群馬県太田市の路上イベントに参加するとのことで向かったが、直前の場所変更が

伝わらずこちらが散々迷ってしまい、なんと結局会うことのできないまま帰宅。

その後のやり取りを巡り、会えていないのに何故?とうちがブチ切れた…なんてこともあった。


なお、今のところ最後に会ったのは、十数年ほど前に確か「リゾートみのり」の展示イベントで

上野駅地上ホームに居た時、偶然到着した電車から降りてきたところを遭遇した時だろうか。

だがその後、SNSで名前を見つけ改めて申請するも


当時の客とは繋がらない


と拒否されたため断絶。

さんざん写真撮影とかバックアップしたろうが…と苦虫を噛み潰して現在に至る。


…そんな気難しい記憶もある群馬界隈。

とにかく現時点で、当時撮っていたはずの写真がほとんど出てこないのだが…


2002年頃、館林駅にて

なんと、当時佐野線・小泉線に投入されていた1800系通勤型改造車の記録を発掘。

停車中に車内も撮影した記憶はあるのだが、写真は見つかっていない。

さまざま車両に関するエピソードが多い東武鉄道の中でも、屈指の“魔改造車”であった。

4両編成3本が改造されたが、扉の増設を行わなかったためラッシュ時は遅延が頻発したらしく…

またワンマン運転開始までの繋ぎと考えられていたようで、2007年までに全編成が廃車。

実質的な稼働期間は5年程度と、21世紀初頭に不思議な爪痕を遺した車両となり…

東武鉄道では、野田線向けに2000系を改造した2080系(4年で全廃)に次ぐ珍形式となった。


ただ、当時葛生まで1往復してこようとかいう考えまでは全く浮かばなかったようであり…

それは今振り返ってみると、割と本数が少ない中でタイトな時間で動いていたとはいえ残念。


また、そんな記憶があるにもかかわらず、肝心の撮影日が特定できない。

野州山辺のスノーヴァで撮影した日か、それとも太田で迷った日だったのか。

そんなことがあったからかはまた記憶が曖昧だが、伊勢崎線と桐生線こそこの時期に踏破したが

その後の断絶もあり、小泉線の踏破は15年以上後手後手に回ることになってしまったのだった。

特に伊勢崎線については、太田駅・伊勢崎駅とも地上線時代の踏破になっている。


2004年夏?浅草駅にて

さてこの時は、何のタイミングで浅草駅を通ったのか、全く判然としない。

写真の前後の時系列で2004年夏と判断したが、どうだっただろうか?

見かけると撮ってはみたものの、当時は全く乗る縁が無かった6050系である。

実際に初めて乗るのは2017年4月10日としているが、この時に浅草まで乗っていたとか?


いずれにしても、当時の鉄道趣味の優先順位の低さといったらなかなかに重症であった。

TUBEのライブやオフ会に伴う遠征は、そのポテンシャルを遺憾なく発揮していたんだけどね。

実際、関東以外では結構遠出していた記録と記憶もボチボチと残されているのだが…

意外に近場は、クールというよりも冷淡と言った方がいいくらいの扱いだったみたいだ。


2007年4月27日金曜日、小菅駅にて

そんな扱いがまた俄かに変わってくるのは、やはりデジカメを入手してからになる。

このあたりから近場の記録が再増加し、煽りで東武鉄道へ足を伸ばすことも増え始めた。

 

まだ8000系の普通が、伊勢崎線北千住以北の緩行線もバンバン走っていた頃であった。

浅草行き普通電車と共に、この小菅駅では今は見れない風景。

現在浅草方面へは、全て北千住で3階から1階への乗り換えが必須となってしまった。

このため、東武日比谷線と形容しても良いような様相になってしまっている。


20050系5ドア車も、ドアを全開にして頻繁に往来していた。

東京メトロ03系と共に、多扉車の一時代を築いた形式であった。

現在では、この線区に限らず5・6ドアの多扉車は全て姿を消してしまった。

すっかり車両は代替わりし、撮影名所である小菅駅もホームドアの設置が進む。


2007年10月19日金曜日、久喜駅にて

さてこの日は、そもそも全くのノープランで動き出していたらしい。

渋谷に友達のライブを見に行く前に、あちらこちらと


大迷走


をかまして、最終的に久喜まで遠征していたようなのだ。

ちなみにこの時に久喜まで乗ったのは、今年1月に引退した東急8500系8637Fだった。


ただ、今にしてみて思えば、まだこの界隈は8000系がバリバリ健在だった頃。


原型幕車、原型LED車、更新幕車と3種の顔を短時間で見れたのは、今考えれば貴重な財産。

改めて見直してみて、やっぱり気になったら撮っておくものだと気持ちも改め直した由。


しかし、半蔵門線直通系統には早くも50050系の導入が始まっていた。

ここから先、その様相はじわじわと変化していくことになっていく。

 

2009年7月5日日曜日、志木駅にて

さてこの日は、東京メトロ副都心線と相互直通運転が開始されたばかりの東武東上線の記録が。

当時にしては珍しく日曜日に公休だったらしく、昼は東京芸術劇場に舞台を見に行っていた。


その頃はライブが多い中で、この月に入った時点で既に2本(日吉・原宿)も参加。

仕事が半端なく忙しかったはずだが、あれこれやり繰りして各地に足を運んでいたらしい。

そんな中で舞台は珍しかったが、当時飲み友達に以前ボキャブラ天国のネタVにも出演していた

俳優さんがいて、その人が出演した舞台を見に行っていたのだった。


もっとも、この時東上線に乗ったのは帰るためでなく、その夜にその俳優さんとよく飲んでいた

飲み屋の開店1周年パーティーに行くことにしていて…

その開店までのちょっと時間潰し、という名目だったようである。


この時、50000系のトップナンバーを初めて見かけたが、まだメインは8000系の時代。

東上線のあちらこちらで8000系の走る姿を見かけたり、また乗ることができたのだった。

ただこの時には、残念ながら原型顔の8111・8112Fには遭遇できていない。


ところで東上線は、今でこそ何かにつけて利用することが増えたが、当時はほとんどなく…

学校見学で1994年7月に池袋〜北池袋間だけ利用したほか(これで大体どこの学校か分かる筈)

1996年の1月、中学の同級生の母親が急逝した際、同級生有志で通夜に参列することになった為

朝霞台〜川越間で利用したのが数少ない利用機会ではなかったろうか。

川越に行く場合は基本JR川越線か西武新宿線だったので、とにかく縁が希薄な路線だった。

なお、通夜に参列した時は、理由が理由だけに写真すら撮り残していない。

(ただ、参列後地元に戻った際に、2年半後に急逝した同級生と大喧嘩した記憶が…)


そんな縁の希薄な東上線だったが、翌年にかけてちょっとだけ利用する機会が増える。

それは趣味的にもそうだが、仕事に関連して嫌でも増えてしまったのもある。

そしてこの日、坂戸からは快速急行で池袋に戻っている。

この際、50090系にも初乗車となった。


ちなみにどういうわけか、越生線の写真が見当たらない。

記録には越生まで往復と書いてあったのだが、書き間違えたかな?


快速急行は今と同様、クロスシート仕様での運転。

この時、新たな乗車スタイルを存分に堪能していたようだった。


上板橋電留線の10000系・10030系群もふいに撮っていたり。

この当時、50000系列と8000系ワンマン車以外は全て方向幕車であった。


池袋に到着すると、乗ってきた50090系は折り返しTJライナーに。

だが、実はTJライナーには今に至るまで乗った事が無い。

関連する川越特急はあるのだが、利用するメリットが極めて無く…σ(^_^;)

路線の地域柄、中々難しいものがあるもので。

同様の理由で、THライナーも利用したことが無いことも併せて申し添えておく。


この後は、山手線を経由してパーティーに向かった。

さすがに疲弊はしていたようだが、それなりに楽しんでいたようである。