185系といえば、特急用でありながら普通列車にも使うという、真逆の課題を持って開発をされた
車両で、実際に送り込みなどのダイヤを利用して普通列車として間合い使用された実績があった。
しかし、それをラッシュ時にやってしまうと乗降ドアが少ないなどの原因で遅延する種になるなど
あまり良いものではなく、JR化に前後してそのような運用はどんどん減っていった。
中でも有名だったのは、東京を7:24に発車する東海道線普通列車伊東行き(列番521M)だろう。
2006年以降2013年3月のダイヤ改正でE231系に置き換えられるまで、東海道線で185系を使用する
唯一の普通列車になっていて、すでに青春18きっぷ利用者、所謂18キッパーと呼ばれる人達の中で
特急用車両による「乗り得列車」として有名な列車になっていた。
ところが、自分は18きっぷの有効期間中にこの列車を使ったことは一度も無かった。
ことに2000年代以降に中部・関西方面に遠征する時は高速バスや新幹線、時に寝台急行「銀河」を
利用する流れにシフトしていて、利用の選択肢にすら上ったことが無かった。
鈍行利用時でも、現地での行動効率化によりムーンライトながらを選ぶパターンだった。
やがて、ムーンライトながらが季節列車化されると、益々選択肢に入ることもなくなり、何となく
まだあるんだなとふと思い出す程度だったのが実情だったのかなと思う。
それと、185系に対するかつての心象の悪さ、も少しは関係がある。
リニューアル前の185系は、普通車は転換クロスシートでリクライニングしなかった。
それが1996年に中央線通勤ライナー(おはよう/ホームライナー高尾)の運用が183系から当系に
持ち替えられた時に、当時の自分には「グレードダウンした」と映ってしまったのだ。
(また183系が所謂グレードアップ編成だったことも、拍車をかけていた様子)
時々小遣いを工面しておはようライナーを利用して通学していた自分には多少なりショックを持ち
以来、185系を多少敬遠していったということがあった。
それは、リニューアルでリクライニングシートになったものの、新塗装もイマイチ好かなかったり
至る部分でマイナスイメージが付き纏っていた節がある。
その心象を解消し、伊豆方面に赴いた際など本格的に撮影や乗車の対象にしていったのは、塗装が
元のストライプカラーに統一された2016年以降…実に35年近くも費やしていたことになる。
今となれば、もったいないことこの上ない状況だった。
そんなことで結局、185系の普通列車に乗ったのは、生涯でただ一度きりである。
2011年11月29日火曜日
整理した外付けハードディスクのデータフォルダの中に、そんな記述のものがある。
このブログにも、その日の記録が書いてある。
のだが…これしか書いてない。
7:24発伊東行きは7番線発。
まだ上野東京ラインが無かったから、東海道線7〜10番線は全て西行きだったのだ。
この時点で2ドアの表示はすでに1日2回のみのレア表示になっていた。
ちゃんと特急列車の車両を使用している旨のスクロール案内も出ていた。
東京駅名物の号車乗車案内札も、普通列車にまつわるものはこの3種類のみだった。
この伊東行きは平日・土曜・祝日と日曜日で編成が変わっていた。
前者は7+5の12両、後者は10両となり、グリーン車の両数も変わるため案内表示が必須だった。
したがって、日曜以外はグリーン車が1両のみのためシーズン時は競争率が高かったと聞く。
そして「普通」の表示を出して田町から回送で入線してきた。
東海道線185系の運用で唯一、特急表示の無い側面行き先表示。
この頃はまだ211系の運用が残っていたからさして珍しくも無かったが、やがて東京口では唯一の
方向幕を使用する普通列車ということになっていく。
前面愛称幕はリニューアルに相前後して、紺地に白字になっていたが…
そうではない編成も中にはあったらしい。
グリーン車マークと方向幕も撮っていたが、別にグリーン車に乗っていったわけではない。
そのような興味はこの頃はまるで薄れていたようで、ただ撮っておいただけという感じ。
この日は平日だから7+5の12両編成での運用。
なぜ基本編成が10両じゃなく7両なのかというと、当時この列車は上りの特急「踊り子102号」の
送り込みとして設定されていたのだが、10両だと需要過剰になってしまうからだった。
日曜のチェックアウト後の需要が増える、温泉地の特急ならではの需要調整だった様子。
また、後ろ5両は熱海で切り離し。
伊東線は11両までしか入線できないため、この措置が取られていた。
この5両は熱海で伊東からの「踊り子102号」に増結、再び同じ編成で東京に向かう。
一見面倒なやり繰りに、運用の苦労が垣間見える。
…さて列車は定刻通りに東京を出発。
しかし、今と違って(というか、最後までほとんど変わらなかったが)停車駅のたびに撮影なんて
ことはほとんどしておらず、車内写真もなく、ひたすら乗ることに徹していたようだ。
先の理由もあってイマイチ気持ちも乗らず、どうも道中は悶々とした時間を過ごしていたらしい。
そんな中で、根府川に9:00到着。
ここではさすがにホームに降りてみたが、曇り空だったせいもあり、やはり気持ちが上がらない。
予定臨の「踊り子103号」が運転する日は、ここで185系が185系を追い抜く事象があった。
しかし、何でもない平日は追い抜く列車は無く…ただ6分間だけ静かに停車して、また静かに発車するだけだった。
熱海9:22着。
ここで5両を切り離したが、入換の都合なのか3番線に到着なのが今にして見れば珍しい。
「踊り子」は2番線発着で分割作業をしていたからね。
この時点で、5両C編成は既に「踊り子」のヘッドマークに変わっている。
来宮9:29
ここから伊東線へ。
この時点で、伊東線に乗るのは15年ぶり3回目のことだった。
さすがに少しばかりテンションが上向いたらしい。
しかし…
伊豆多賀9:35到着
あれ…?
見送っちゃった。
今の自分なら、終点伊東まで間違いなく乗るんだろうが。
この時はどんな風の吹き回しだったのか、伊豆多賀で見送ってあっさり引き返してしまった。
やっぱり最後の最後まで気持ちが乗り切らないまま終わってしまい、リベンジすらできなかった。
あと14分、どうして我慢できなかったかな自分…?
そして伊東界隈に再訪問するのは、この時からさらに4年半の時間を必要とするのである。
ちなみに、この日のその後の甲種輸送や配給輸送の撮影成果もあまり芳しくなかったようである。
気持ちが乗り切らない時に撮影に出ても良くないんだよという教訓を、後に残した一日だった。
その帰り道。
熱海に戻ってくると、先程の5両C編成が5番線東京方の電留線に入れ換えてスタンバイ済み。
そういうのは、待ち時間があったからなんだろうけどしっかり撮っていたようでw
しかしこの入換〜併合作業を見守ることもなく、また足早に東京へ引き返していったのだった。
とにかくこの前後、それこそ一昨年くらいまではメインで記録することのなかった185系。
ことにこのリニューアル塗装に対する扱いは、今考えるとかなり酷いものだったなとw
それでも散発で撮った記録は少なからず出てきたので、それはまた日を改めて。