251系スーパービュー踊り子の記録と記憶【1990年代編】 | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

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『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

9月2日深夜から3日朝にかけて、東大宮に留置されていた251系RE-4編成が長野に向けて回送された。
これにより251系スーパービュー踊り子は、ついに全車が廃車となり形式消滅となった。
コロナ禍が無ければ大々的にさよならツアーをしたりイベントなどでも展示をされたりしただろうし
(実際に伊豆急行で予定されていた撮影会は、すべて中止になってしまった)
かねての一部撮り鉄の暴走・妨害行為にJR東日本も堪忍袋の緒が切れ、7月のRE-1編成廃車回送から
中央線区間まで回送ダイヤが深夜に変更されるなど、今後に禍根と課題を残したラストとなった。

さて、251系の記憶。
すでに

【90's DOOR】の記念すべき第1回(近々ネタがそれなりにあるのはわかるがそろそろ更新しろよ)

とか、

引退に際してここ1年の記録を振り返った連載(全11回+3回に渡る自分としては結構な大作)

など折々に触れて書いてきたから、そこまで手元に記録はあまり残っていない。
それでもまだ出していない記録もまだあったから、既出のものも絡めて分けて出してみたい。

一番最初にスーパービュー踊り子に接したのは既出の通り1991年の8月となるが、中学の頃は遠出は
学校のイベントや母の実家に泊まりに行く時以外はほとんどが車での移動がメインになってしまって
比例して記録もそんなに残されていないのが実情だ。

その状況が変わり始めるのが、1995年の1月。


伊東旅以来最初の記録は、1995年1月10日火曜日。
【90's DOOR 011】に書いた高校受験の願書提出の帰りだ。
この時は東京駅は北陸新幹線乗り入れ工事真っ盛りなことはこれまでも書いたが、東海道線ホームも
旧7・8番ホームの幅の縮小と10番線閉鎖・9番線仮ホーム化という過渡期スタイルだった。
それだけに9番ホームは狭く、また光線具合も微妙で撮影には難儀を極めたようだ。

…まぁ繰り返しのように書くが、よく願書提出した帰りなぞに撮り鉄してたもんだよw

1995年7月20日木曜日、藤沢にて

この日は江ノ電に念願の初乗車を果たしてからの帰りに遭遇した模様。

1995年8月4日金曜日、新宿5番線(現7番線)既出→【90's DOOR 019】

たまにこうして実習で新宿に通っていた時にも、ふと気が向いてシャッターを切っていたりする。

1995年10月21日土曜日、東京駅にて

7番線で回送のために折り返すところだろうか?
今となっては、すっかり上野東京ラインが北に向かう線路になってしまったので逆に新鮮な姿か。

1995年12月頃、新宿駅にて

その後は、学校の行き帰りなど。

…ただ、これは今でも言えることだけど、そもそもが中央線ユーザーだから、東海道線系統の列車を
撮ろうとするなら、少しばかりの気合いが必要だった。
当時は輸送障害時の迂回で利用する機会もそれなりにあったけど、それはだいたい部活帰りの夕方で
かつ上野〜秋葉原界隈で遭遇した時に限られることが多かった。
だから、結局のところ全体的に見てもそんなに記録が残されていない。

そんな中でも出色なのは、この並びだろうか。
1996年7月7日日曜日、高崎運転所(当時)

名だたる車両が高崎に大集合したイベントで、一番の目玉で圧巻だった5形式並び。
左から251系、651系、E351系、165系パノラマエクスプレスアルプス、485系シルフィード。
中でもE351系が高崎に入ってきたのはこの時だけではなかっただろうか。
今にして思えば、よく行ったものだ。
時期的に試験前だったはずなのだが。

1996年9月27日金曜日、宇佐美駅にて

秋休みの研修旅行の帰りに、すれ違いを咄嗟に撮っていたカット。

1997年3月1日土曜日、東京駅にて

これは、北陸新幹線ホーム建設に関連した工事で9番線(旧7番線)を使用停止する前日のもの。
翌日からは新10番線を使用開始し、最後の改築をすることとなった時のカットだ。

…という感じで、90年代に撮り残したのはこれくらい。
これ以降趣味の多様化(鉄道離れ)などで、記録が一時途絶えることとなる。
リニューアルなど動向こそ掴んではいたが、なかなか興味が赴かず…
そこから10年ほどの空白が生じてしまったのは、今では痛かったなと後悔している次第である。