東急7000系・7700系の記録と記憶 | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

東急7000系と7700系。
存在こそはかねてから知っていた、オールステンレスカーのはしり。
鉄道誌でも見ていたから、昔から興味は強く持っていた。

ところが自分は、そもそも東急線沿線にはさっぱり縁がなかった。
親戚が沿線に住んでいたわけでもないから、全盛期に実際に走る姿にすら出会えていない。
小学校の鉄道研究クラブ時代に東急電車とバスの博物館に行きたいという提議も却下されていた。
結局実際に東急線に乗り、7000・7700系に出会うのは高校に進学して乗り巡るまで無かった。

そして7000系については、実は譲渡先の鉄道会社で一番最初に出会っていた。

1995年4月2日日曜日、寄居にて
高校進学直前、JR東日本のホリデーパスを使って首都圏一日周遊の旅に出かけた。
と言っても東京・埼玉・神奈川県のみのささやかなものだったが、その際に寄居→熊谷間だけは秩父鉄道を
経由するルートをプラン設定していて、そこで乗車したのが東急7000系改め秩父鉄道2000系だった。
秩父鉄道には、1991年にラストランを飾った7061編成を含む4両編成4本16両が譲渡され、ワイパーなどの
小改造や青帯への張り替えのみという出で立ちで、冷房改造されることもなく走っていた。

…正直なところ、この時本当に乗りたかったのは旧国鉄・JR101系の1000系だったはずだ。
それが当たらなくてガッカリした記憶があるけれど、この2000系は2000年までに真っ先に引退してしまい
一部車体が民間に売却された以外は他の私鉄への再譲渡もなく、あっさりと廃車解体されてしまった。 

しかも代わりにやって来たのが、都営地下鉄三田線6000系改め5000系セミステンレス車。
その5000系は、一部が事故廃車されたものの、導入から18年弱経つ今でも現役で運用されている。
18m車3両では輸送力不足、でも4両では輸送力過剰という微妙なサイズ感が短命に繋がってしまった。
そんな状況だったから、今となれば貴重な記録になったし、却って乗れて良かったと思える。

同、熊谷にて

1995年当時の秩父鉄道オールスター。
旧JR165系の3000系など、当時は自社発注車はすでに消えていたもののなかなかなバラエティだった。
あれから23年、今やどの車両も消えてしまった。なんて歳だ。

そして、東急電鉄に乗れたのはそこから約1ヶ月半後。

1995年5月13日土曜日、大岡山にて
当時は土曜日といっても半ドン(午前中は学校)だったから、学校を終わらせた後に乗り鉄に行っていた。
入学から1ヶ月余り過ぎたところで、ようやく東急電鉄に興味が引かれたようである。
後々学校の件で年に1回は祐天寺に行くようになっていくが、それを前にしての訪問だった。

…もっともこの時は、車両に対してよりも続々と行われていた駅の大改良工事への興味が強かったようだ。
まだまだオールステンレス車は鉄道全体では亜流だったと言える頃で、大岡山や田園調布、武蔵小杉などと
いったターミナル駅が刻々と変わっていく様子を眺めに行っていた。
どちらかといえば東急電鉄の車両はステンレスだけで地味、というイメージが強くあったようだ。

そんな中でも乗り鉄・撮り鉄に出掛け、最初に7700系を収めたのは奇しくも今回引退の7901編成。
当時まだ目蒲線と呼ばれていた頃で、いかにも仮設感が強い大岡山駅でホーム越しにそれとなく撮っていた。

同、洗足池にて

池上線に乗り、すでに歌舞伎塗装となっていた7914編成との行き違い。
この頃は4両編成12本が目蒲線、3両編成2本が池上線と分かれて運用されていたようだ。
のちに余剰となっていたサハ7950を電装・先頭車化改造した7915編成が現れ、最終的には4両編成が11本と
3両編成4本の陣容で目蒲線・池上線系統で7600系・1000系と共に走り続けていた。

蒲田にて

目蒲線時代の蒲田駅は、現在の東急多摩川線と違ってホーム柵もなく非常にすっきりとしていた。
旧様式の駅名板もまた、懐かしいアイテム。

同、田園調布にて

現在は目黒線ホームとなっているが、まだ相互乗り入れ開始から5年も前でイメージもできなかった頃。
18m車4両編成が発着すると、やけにホームが広く感じたものだ。

1996年12月頃、大岡山にて
さて、この写真は丸ごと余剰分のアルバムに入れられていたので、詳細は今では分からない。
前後の写真の時期から推察して、1996年12月頃に大岡山で撮影した写真らしい。
それも、この時期に東急電鉄で撮影したのがこの1枚きりなのがまた謎なのだが。
すでに大井町線ホームは地下に移設され、目蒲線だけが地上に残っていた頃の貴重なカットだ。

1997年3月6日木曜日、こどもの国にて
まだ通勤線化されていなかった東急こどもの国線へ訪問した時のカット。
東急線上で最後の7000系デハ7057+デハ7052が、ワンマン化されてこどもの国線で走っていた。
専用塗装化された上に運転台はワンハンドル化されていたからか、あまり興味は沸いていなかったようで…
ようやく訪問したにもかかわらず、7000系在籍当時に乗ったのはこの一度きりだったようだ。

同、長津田にて

1999年まで東急線上で務めを全うし、廃車後は東急車輌(現・J-TREC横浜製作所)の牽引車として使用され
現在は技術遺産として、デハ7052がデハ5201と共に保存されている。

そして、終焉へ。

今年4月25日水曜日、蒲田にて

同、旗の台にて

10月5日金曜日、蒲田にて

同、旗の台にて

手直しを受けつつも56年に渡り走り続けてきたことは大手私鉄としては特筆に値することで、言い換えると
必ず居て当たり前の存在だったせいか、なかなか記録を積極的に残してきたとは言い難い。
それでも、機があるごとにそれとなく記録を残してきたことは、かけがえのない財産だった。
また空白期のもの(特に譲渡車)が出てきたら出してみようとは思うが、ひとまずこれで区切りとしたい。