【90's DOOR 009】301系が走っていた頃・1994年晩夏 | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

かつて、中央・総武線各駅停車から営団地下鉄東西線(当時)に直通していたJR東日本301系電車
国鉄初のアルミ車として登場、乗り入れ協定に基づく高い加減速と103系譲りの性能を持ち、地下鉄線内は
東陽町〜西船橋間で快速運転を行うなど、一貫して同線系統で2003年まで活躍した。
7両から10両編成への組替えで一部クハが中間車代用化されたり、更新工事で冷房化されたり、さらに当初
アルミ無塗装だった車体もグレーベースの塗装に黄帯が巻かれ、それもJR化後には205系の導入にあたって
誤乗防止の観点から東西線のラインカラーである水色に変えられたり、103系と併結運転もしたり…
合計わずか56両の小世帯ながら、波瀾万丈な37年の車歴だった。

90年代の始めまで父方の祖父母のマンションが信濃町にあったり、さまざまな関係から時々都内へも電車で
乗っていった記憶はある(一人で信濃町へは、祖父の存命中には一度もなかった)ものの、地下鉄東西線を
そもそも利用する機会はなく、301系を見たかどうかの記憶も激しく曖昧で確証が持てない。
中央・総武緩行線を走っていた101系や、転属してきてオレンジやウグイスの混結・線名ステッカーを貼った
103系やカナリア色の201系のほうが記憶が鮮明なのだが。

したがって301系を収めた写真が登場したのは、八高線よりも遅かった。
それも通常、営業運転では絶対に走らない区間で。

1994年9月6日火曜日、国立〜立川間にて

この頃の自分は、少しフィルムに余裕があったり臨時列車運転の情報を見つけたりすると、自転車を漕いで
南武線や中央線に沿線撮影に赴いていたようだ。
高校受験を控えている割に、ずいぶん余裕かましていますがね(笑)
しかし今見ると、どれもクオリティは恥ずかしい限りで、今ならこうできるとか思うばかりなのだが。

夏休みも終わったそんな折、しかも火曜日にこんな写真を撮っていた。
それも偶然に301系が現れたのだから、かなりビックリしながら撮っていたはずだ。
それとも、下校時に遠目に下っていく姿を見て、また折り返してくると踏んで走っていったのか?
(南北に走る通学路からは、路地の合間に東西に走る中央線が少しだけ見える)

さらにビックリしたのが、301系は5両だけで後部(高尾側)にクモヤ145が付いていたこと。
当時は検査周期の関係からだったのか、このような入出場は多く見られたものだ。
ただそのダイヤは当時はなかなかわからず、こうしてたまたま見つけては喜ぶことの繰り返しだった。
今だったらTwitterとかでバーンと情報拡散するんだろうけどね(笑)

1994年9月24日土曜日、竹橋にて

そして、営団地下鉄東西線に初めて乗る日は、そこから意外にも早く訪れた。
18日後の1994年9月24日、竹橋駅で中野行きとして到着した301系を捉えていた。

どうもこの時、中学の文化祭の出し物に関連して北の丸の科学技術館に行っていたらしい。
だが何の出し物だったとか、クラスの誰と一緒だったとか、その辺のことはメモも無く全く覚えていない。
状況が状況だけに、一人で行ってはいないはずなのだがね。

残されていたのは、その文化祭とは全く関係のない鉄道写真ばかり(笑)

この帰路、竹橋→中野間が301系への初乗車となった。
高加減速の威力にも驚いたが、103系と決定的にも違ったのは空気ばね台車による乗り心地の良さ!
さすが「デラックスな通勤電車」と言われていただけあるなぁと唸らせるものだった。

中野にて

中野に着いて、中央線快速に乗り換える時間の隙を縫って、タイミングを伺いつつあれこれ撮影していた。

今見てわかるのは、当時はフラッシュも寛容な時代だったなぁということ。
一眼レフを持っていなかったから、フラッシュを使わないと殊の外夕夜間の撮影はキツかったからだ。
でも、デジカメが普及する前は、咎められたことは唯の一度も無かったっけな。

当時から変なところ貧乏性で、一眼レフを買ったことは一度も無し。
後年、専門学校の写真ゼミ(特講)を受講していた時も借り物で凌いでいたくらい。
そんな妙な割り切りの良さが、今に至るまでの活動を支えていたのかもしれない。
そしてこの頃から、写真撮影は少しずつ増えていく…

そして、この頃の営団地下鉄東西線。
当時増備が行われていたのは、05系。
初期車の一部は、すでにインドネシアへ輸出されたり北綾瀬支線に転用され東西線に現存しない。
この11編成のうち3両は、のちに近畿車輛に送られて試験車両として使われていたみたいだ。

まだまだ主力だったのは、5000系。
一部が廃車され東葉高速鉄道に譲渡されてはいたものの、まだ安泰であまり撮影対象にしてなかった様子。
それにしても、場内信号機の「営団」表記がやはり懐かしい!

当時の05系最新編成は左の23編成。
アルミリサイクルカーとなった24編成が登場するのは、もう少し後のこと。
ちなみに帰りにも11編成に出会い、つくづく縁の深い編成だったようだ。


※タイトルの通し番号を、ハイフンを取り止め整合し直しました。
したがいまして、今回が9回目です。