【90's DOOR 004】少しずつ西へ。身延線・ジョイフルトレイン・ホリデー快速 | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

1994年。
当時既に中学生、それも2年から3年にはなっていたが、なんでだったのか行動範囲は限られたままだった。
まぁ自分も、音楽趣味発展期にあたる時期になるので、それが不満だったことも取り立てて無かったけど。
どうしていたかと言うと、たま〜に鉄道ダイヤ情報でネタを見つけると、自転車を走らせて国立ー立川間の
中央線沿線でひたすらに写真を撮るということを繰り返していたらしい。
時には飼い犬の散歩の機会に乗じ、飼い犬を付き合わせていたりもしたみたいだ。
そのため、手元にはこの前後に沿線で撮影した写真がずいぶん残されていた。
但し不思議と南武線にはあまり興味がなく、やはり大幹線のひとつである中央線に惹かれていたようだ。
(うちからは撮影ポイントが点在する西国立〜谷保間が比較的遠かったのもある)

そんな中、1993年秋に社会科見学の一環で都内を巡る行事が中学であった。
この時にフリー切符を使わない周りの計画に業を煮やし、時刻表を切り取って各クラスに提言した辺りから
少しずつ遠くへ、先へ行きたい、乗りたい、撮りたいという欲が増してきていた。
ちょうど高校受験を約1年後に控え、志望校を固めるというタイミングもあったからだろう。

そんな中、1994年4月1日から3日にかけて、また山梨県上野原の母方の実家に帰った際の記録があった。
春休み期間中で、新学年新学期を控えて誰と一緒になるか不安な中、スッキリ髪を切って準備しておこうと
出かけていって、いつもより長い2泊3日を過ごしていたみたいである。

ところが4月3日、写真を見るとさらに西にいたようだ。

それもわざわざ一旦大月で降りて、特急をやり過ごしてからまた乗って。

甲府に着いたら、身延線ホームには165系時代の急行富士川号が。
急行時代の富士川号を撮影したのは、後にも先にもこの一度きりだった。

身延線で当時運用されていた115系も、しっかり撮影していた。

そして留置線にはEF64 37と12系客車「なごやか」が編成を組み、パンタグラフを下ろして停車していた。
たぶんであるが、このジョイフルトレインが甲府にいるダイヤを確認して、かつ臨時のホリデー快速が続々
運行しているのも確認した上で、帰りしなにここまで足を伸ばしたらしい。
甲府まで電車で行ったのは、母方の親戚の葬儀に参列するため母の同行役で行って以来7年半ぶりだった。

それ以外にも、甲府では続々とネタを収めていた。
183系臨時「かいじ」と215系の回送。
183系は、幕張電車区(当時)配置の0番台車だった。
貫通型の0番台は臨時運用でしか来なかったので、貴重なシーンだ。

169系「ホリデー快速ピクニック号」と183系「あずさ」。
松本電車区の183系は、すでにこの新色化が終わっていた頃だと思う。
169系は、前面強化改造が始まった頃。
先の115系と同様にステンレス地をキラキラ輝かせて、アンバランスなことこの上なかった。

さらには、この時に初めて小淵沢まで足を伸ばしていた。
ちゃんと外に出て、当時の駅舎も収めていた。

待ち受けたのは、215系の臨時「ホリデー快速ビューやまなし号」。
平日は東海道線の湘南ライナー・快速アクティーに充当されていたが、前年から土休日の中央線に進出。
普段はなかなかお目にかかれない車両だったから、どうしても乗ってみたかったことは覚えている。
それも始発から乗りたいなんて、今に通ずる考えだなぁと笑ってしまう。
やっぱり乗り鉄するなら

始発から終点まで

がいいもんなぁ。

ちなみに小海線のキハ110は、この時が初対面。
キハ110に実際に乗るのは、2年後の八高北線の置き換えを待つことになる。

※ただしこの時は、さすがに新宿までは行かずに立川駅で降りていた

中央東線の115系は、まだまだスカ色オンリー。
パッとだけ見れば地味な印象があったが、この頃は0番台車の前面強化改造が進行中。
しかも過程で簡易シールドビーム化改造を行ったものもあり、趣味的になかなか面白いものがあった。
個人的には、デカ目が無くなっていくのは寂しかったけどね…
そういう移り変わりの頃に記録を残しておいたのは、ある意味タイミングが良かったのだなと思う。