過去の記事の復習になるが、
わが家が全/焼するという災難の後、義姉の長男に全く別件の用事があり、
事の次第を彼には伝えることとなった。
にも関わらず、車で10分ほどの所に住む義姉と義兄、同じく小一時間の所に住む義弟、
この人達がお見舞い金を携えてやってきたのは、火/災から4ヶ月後だった。
もちろん、それまでに様子を尋ねる電話一本なかった。
義姉兄弟がお見舞いに訪れた時、私はその場に居なかったのだが、
第一声が義兄の「何で言うてこえへんねん❗」だったそうだ。
「大丈夫やったか?」でも「大変やったやろ!」でもない。
義姉兄弟以外の人達はそうではなかった。
わが家の災難を知って、いても立ってもおられない…という風情で、
主人の仕事場に駆けつけてくれた友人知人達。
その中には場所が分からず、職種だけを頼りにパソコンで検索し、
店舗を見つけて来てくれた人も居た。
私の実家に、それぞれの身内の老若男女の衣服や身の回り品を集めて、
段ボールを何箱も運び込んでくれた私の親類縁者。
その人達は、私達家族の災難に対して自分のことのように心を痛め、
私達を見るなり涙を流してくれた。
そんな私達の傷みに寄り添ってくれた心優しい人達と義姉兄弟とは何かが決定的に違う。
義姉兄弟がそれぞれ10万円ずつ、そして義母から10万円。
義母はこの頃、ほとんど何も理解していなかったと思う。
なので、義母からの10万円は義母のお金を管理している義姉の裁量ということだ。
40万円を渡し《することした》という態度が目に見えるようだ。
そして、その頃住んでいた借家に、どうしても私に逢いに行きたい…
と言う義姉と主人は激しく口論し、結局は断ったと主人から聞いた。
主人はこの口論の時、義姉に向かって
「○○(私)のお年玉の中身だけ空にするような意地悪するな!」
というような内容の事を言ってくれたらしい。
義姉は自分は絶対にそんなことしていない、と言い張ったらしいが。
このお年玉というのは、過去の記事に詳しく載せたことがあるが、
義姉の長女が結婚して初めてのお正月に、
その時集まっていた義姉兄弟と私達のそれぞれ家族全員に、
義母からお年玉を渡すというセレモニーがあった。
わが家が火/災にあう直前のお正月で、義母は事情も理解しておらず、
義姉が義母に手渡すお年玉を只、指示された人に渡していただけだ。
それまで義実家ではそんな習慣はなかった。
只ひとえに、義姉が娘婿に見栄を張る為のセレモニーだ。
その集まりの帰りの車の中で、主人が子ども達に
「パパのもママのも遣っていいから好きな物買っておいで」と言い、
袋を開封したら私の物だけ空だったのだ。
そこまでするか!と腹がたったが、主人と私はそのことについて、ほとんど話さなかった。
私が主人に対して「貴方の身内のすることは…」と怒りをぶつけることもなかった。
そんな姉兄弟だからこそ、主人は全く付き合おうとしていなかったし、
庇うこともなかったので主人に怒りをぶつけるのは筋違いだという一面もあった。
話しを戻すが、この義姉兄弟が火/災のお見舞いに訪れた時に、このお年玉の件について、
主人は義姉と口論した訳だが、私は只「口論した」と聞いただけで、
お年玉の件を話したとは、主人はこの時には言わなかった。
ほとんど付き合いのない身内とはいえ、自分の姉が私にしたことが、
私に対して恥ずかしかったから、私の前で話しを蒸し返したくなかったのだろう。
私達夫婦は……
火/災のお陰で、と言うと語弊があるが、やはりこの災難で人の温かさを知ることになり、
主人も私も生き方そのものが変わったとさえ言える。
特に主人は、それまで物事を斜に見る傾向が強かったので、
私より、より変わった。
しかし、義姉兄弟との関係だけは全く改善されなかったのには、
このような経緯があったからだ。
また、私はこの時主人が、私が義姉から空のお年玉を
渡されたことについて抗議してくれことを知らなかったが、
今は知っている。
どういうきっかけで、このことを知ることとなったかと言えば、
義母亡き後の四十九日の法要の場所で、私が義姉と真っ向対決したからだ。
まぁ、まだこの時点では義母は生存されているので、
時系列を追って書いていこう。
わが家の4件向こう隣のお宅が不審火により、火/事になり、
その延焼により、わが家が全/焼してから数日後に、
娘の手術日が決まったと病院から連絡があった。
不安に包まれてはいるけれど、しなければならないことがあまりに多かった。
主人の仕事は店舗があるので、影響も少なく営業することが出来たが、
私用があまりにも膨大だった為、休業することも多かった。
私も自分自身の自営業があるが、こちらは自宅での営業だったので全く成り立たなくなり、
借り部屋を探し、1カ月後に再開した。
間を開けると成り立たない職種なのだ。
その時も、私が再開するまで何ヵ月でも待つと言ってくださった顧客もおり、
9割以上の方が遠い借り部屋に継続して通ってくださった。
ここでも、もし自分が逆の立場なら出来ただろうか?と、
問い質してみずにはいられなかった。
そして、緊急避難していた実家から小さな借家に引っ越しもした。
息子は受験生であったので火/災の数日後に私立受験に臨んだ。
そこから1ヶ月後に公立受験があり、私立と公立の受験の中間に卒業式があった。
無事に息子は第一希望の公立に合格が出来た。
何よりも火/災から卒業式も含めて1日も学校を休むことなく登校できたのが奇跡のようだ。
それもこれも、友人知人達、私の身内の支えの賜物だった。
息子がこのように過ごしている時に、娘は入院し手術に臨んだ。
2~3時間と言われていた手術は7時間に及んだ。
夕方4時から始まり、夜も深まった11時に終了した。
手術が長引いたのは、簡単に言えば、腫瘍が予想外の筋肉の裏側にあったということだ。
暗い待合室で主人と待っていた時間は思い出すのも嫌な時間だ。辛かった。
2週間と言われていた入院は感染症を起こし、1ヶ月に及んだ。
自宅から病院まで1時間半かかったが、私は毎日仕事の合間に通った。
1日だけ、息子の卒業式の日のみ、卒業式に出席したので仕事との兼ね合いでいけなかった。
娘の腫瘍は良性と確定したので気分も軽かったし、
自由に歩けたので、入院中は大きな大学病院内の庭を散歩したり、
病院内とは思えない充実したレストランやカフェを利用したりして過ごした。
この時間は穏やかで、私も娘も良い思い出として残っている。
このブログのおかげで、改めて自分の気持ちを振り返ってみると、
この病院で過ごす間は、正当な理由で現実逃避できていたのかも知れない。
そして、やがて娘は退院して学生生活に戻り、息子は高校に入学し、
小さな借家で、私達家族は自分達の生活を再建しつつあった。
元の土地に新しい家を建てる目処もたった。
そこまでの3ヶ月、ところどころ記憶も飛んでいるくらいの大変さだったが、
実家に身を寄せている時から、全てを失った私達に、
身の回り品や、お見舞い金が届けられてきた。
出逢ったこともない従姉妹や従兄弟の子ども達からも
娘や息子に合う若い人向けの品物が届いた。
友人知人からも然り。
さて、主人の姉兄弟からは何の音沙汰もなかった。
以前の記事に書いたが、義姉の長男である甥っ子には車の件で連絡したので、
火/災のことも伝え、甥っ子からは動かなくなった車のことや、
必要だった布団のことでお世話になった記憶がある。
また、甥っ子のお嫁さんからは娘の入院に際してお花も戴いた。
そこから話しは伝わっていないはずがない。
だから、少なくとも義姉は自分の弟の家族が、
他所の家の延焼で家が全/焼して焼け出されたことを知らないはずはない。
義姉兄弟に何かしてもらおうとは思わないが、流石に「?」と思わずにおれなかった。
義姉は義兄弟に伝えなかったのだろうか?
伝えた上で3人共、何のアクションも起こさなかったのだろうか?
そして、火災から4ヶ月後、おもむろに義姉兄弟が夫婦同伴で、
主人の店にやってきた。
その時、私はおらず、主人だけだったのだが、後から主人に聞いたところによると、
義兄が主人を見た第一声が「何で言うてこえへんねん!」
※何故、火/事にあったことを自分から知らせてこないのか?の意。
「大丈夫?」「大変やったやろ~」「えらいことやったね」と言って、
私達夫婦の顔を見るなり泣いてくれた人達と何という違いだろう。
「何で言うてこえへんねん!」
「普通、そんなこと言うかな…」と後から主人が私に言った。
そして、どうしても借家にきて、私に逢いたいと義姉が言うのを主人は断ったそうだ。
結構な口論になったらしい。
自分の兄弟家族の家が全/焼し、焼け出された。
普通、事情を知った者から駆けつけるだろう。一人、二人、と。
義姉兄弟以外の温かい人達は、
事情を知った人から、一人、二人、と駆けつけてくれた。
この期に及んでも子分よろしく、それぞれ夫婦で6人揃って待ち合わせてやってくる。
義姉兄弟と義母、それぞれ10万円ずつのお見舞い金を包んで。
義母の財産は全てを義姉が管理していたので、義姉の判断だろう。
4ヶ月放置してから取った義姉兄弟の行動がこれだった。
主人は性格の偏ったところがあり、人と信頼関係を築くのが下手な人だ。
しかし、この火/災で人の温かさに触れ、本当に対人関係がよくなった。
主人も私も『自分ならこんな親切は出来なかっただろう』と、
自分のそれまでの生き方さえ見直さずにおれない人の温かさに触れたのだ。
主人はそれまでの対人関係が上手くなかったので、殊更に変化があった。
いろいろな人に心を開き、今までとは違う良好な人間関係を持つようになったのだ。
なのに、一番近い血縁のある姉兄弟とは溝が深まっただけとなった。
その延焼により、わが家が全/焼してから数日後に、
娘の手術日が決まったと病院から連絡があった。
不安に包まれてはいるけれど、しなければならないことがあまりに多かった。
主人の仕事は店舗があるので、影響も少なく営業することが出来たが、
私用があまりにも膨大だった為、休業することも多かった。
私も自分自身の自営業があるが、こちらは自宅での営業だったので全く成り立たなくなり、
借り部屋を探し、1カ月後に再開した。
間を開けると成り立たない職種なのだ。
その時も、私が再開するまで何ヵ月でも待つと言ってくださった顧客もおり、
9割以上の方が遠い借り部屋に継続して通ってくださった。
ここでも、もし自分が逆の立場なら出来ただろうか?と、
問い質してみずにはいられなかった。
そして、緊急避難していた実家から小さな借家に引っ越しもした。
息子は受験生であったので火/災の数日後に私立受験に臨んだ。
そこから1ヶ月後に公立受験があり、私立と公立の受験の中間に卒業式があった。
無事に息子は第一希望の公立に合格が出来た。
何よりも火/災から卒業式も含めて1日も学校を休むことなく登校できたのが奇跡のようだ。
それもこれも、友人知人達、私の身内の支えの賜物だった。
息子がこのように過ごしている時に、娘は入院し手術に臨んだ。
2~3時間と言われていた手術は7時間に及んだ。
夕方4時から始まり、夜も深まった11時に終了した。
手術が長引いたのは、簡単に言えば、腫瘍が予想外の筋肉の裏側にあったということだ。
暗い待合室で主人と待っていた時間は思い出すのも嫌な時間だ。辛かった。
2週間と言われていた入院は感染症を起こし、1ヶ月に及んだ。
自宅から病院まで1時間半かかったが、私は毎日仕事の合間に通った。
1日だけ、息子の卒業式の日のみ、卒業式に出席したので仕事との兼ね合いでいけなかった。
娘の腫瘍は良性と確定したので気分も軽かったし、
自由に歩けたので、入院中は大きな大学病院内の庭を散歩したり、
病院内とは思えない充実したレストランやカフェを利用したりして過ごした。
この時間は穏やかで、私も娘も良い思い出として残っている。
このブログのおかげで、改めて自分の気持ちを振り返ってみると、
この病院で過ごす間は、正当な理由で現実逃避できていたのかも知れない。
そして、やがて娘は退院して学生生活に戻り、息子は高校に入学し、
小さな借家で、私達家族は自分達の生活を再建しつつあった。
元の土地に新しい家を建てる目処もたった。
そこまでの3ヶ月、ところどころ記憶も飛んでいるくらいの大変さだったが、
実家に身を寄せている時から、全てを失った私達に、
身の回り品や、お見舞い金が届けられてきた。
出逢ったこともない従姉妹や従兄弟の子ども達からも
娘や息子に合う若い人向けの品物が届いた。
友人知人からも然り。
さて、主人の姉兄弟からは何の音沙汰もなかった。
以前の記事に書いたが、義姉の長男である甥っ子には車の件で連絡したので、
火/災のことも伝え、甥っ子からは動かなくなった車のことや、
必要だった布団のことでお世話になった記憶がある。
また、甥っ子のお嫁さんからは娘の入院に際してお花も戴いた。
そこから話しは伝わっていないはずがない。
だから、少なくとも義姉は自分の弟の家族が、
他所の家の延焼で家が全/焼して焼け出されたことを知らないはずはない。
義姉兄弟に何かしてもらおうとは思わないが、流石に「?」と思わずにおれなかった。
義姉は義兄弟に伝えなかったのだろうか?
伝えた上で3人共、何のアクションも起こさなかったのだろうか?
そして、火災から4ヶ月後、おもむろに義姉兄弟が夫婦同伴で、
主人の店にやってきた。
その時、私はおらず、主人だけだったのだが、後から主人に聞いたところによると、
義兄が主人を見た第一声が「何で言うてこえへんねん!」
※何故、火/事にあったことを自分から知らせてこないのか?の意。
「大丈夫?」「大変やったやろ~」「えらいことやったね」と言って、
私達夫婦の顔を見るなり泣いてくれた人達と何という違いだろう。
「何で言うてこえへんねん!」
「普通、そんなこと言うかな…」と後から主人が私に言った。
そして、どうしても借家にきて、私に逢いたいと義姉が言うのを主人は断ったそうだ。
結構な口論になったらしい。
自分の兄弟家族の家が全/焼し、焼け出された。
普通、事情を知った者から駆けつけるだろう。一人、二人、と。
義姉兄弟以外の温かい人達は、
事情を知った人から、一人、二人、と駆けつけてくれた。
この期に及んでも子分よろしく、それぞれ夫婦で6人揃って待ち合わせてやってくる。
義姉兄弟と義母、それぞれ10万円ずつのお見舞い金を包んで。
義母の財産は全てを義姉が管理していたので、義姉の判断だろう。
4ヶ月放置してから取った義姉兄弟の行動がこれだった。
主人は性格の偏ったところがあり、人と信頼関係を築くのが下手な人だ。
しかし、この火/災で人の温かさに触れ、本当に対人関係がよくなった。
主人も私も『自分ならこんな親切は出来なかっただろう』と、
自分のそれまでの生き方さえ見直さずにおれない人の温かさに触れたのだ。
主人はそれまでの対人関係が上手くなかったので、殊更に変化があった。
いろいろな人に心を開き、今までとは違う良好な人間関係を持つようになったのだ。
なのに、一番近い血縁のある姉兄弟とは溝が深まっただけとなった。
わが家が全/焼して、ほんの車で10分程のところに住む義姉兄や、
車で小一時間程のところに住む義弟がそれぞれ[夫婦お揃い]の6人でお見舞いに訪れたのは、
災難から4ヶ月後だった…と、前の記事で結論から書いたが、
もちろん、その4ヶ月は本当に大変だった。
家が全/焼する…それは、想像を絶する災難である。
しかし、私達夫婦には重く重くのしかかる心配事があった。
そう、娘の手術日の連絡待ちの状況だったからだ。
娘の腫瘍はまずは良性と判断されていた。しかし、ここに病名を書いたとしても、
ほとんどの人が聞いたこともないだろう特殊な病名であった。
4件の病院を受診し、移植手術などのニュースで度々、名前の出る日本屈指の大学病院で
やっと病名がつけられた。
又、発症した場所が、その大学病院でも先生方の経験でも<初めて>という難件だった。
私達夫婦はその事に思いを馳せると、火/災のことなど本当に小さなことに感じるのだ。
そして、この火/災が娘と息子にどんな影響を与えるのかも不安だった。
その火/事は皮肉にも息子の誕生日の未明に起こった。
消火活動の終わった夜明けと共に私の実家に避難し、私は実母の服を着て、
ユニクロに家族の服を買いに走った。
そして、消防署にも出向かなければならなかった。
家が全/焼し、ほぼ全ての物を失ったというのに、
1週間以内に失った物全てを書き出せという。
「は?」呆然としてしまったが、それをしなければ保険に影響する。
そんな長い1日の午後、また別の意味で驚くことが起こった。
主人の仕事場に続々といろいろな人が訪れた。
主人の仕事場に行けば、私達に逢えるかも…と考えた人達だ。
主人の仕事場は地域に密着していたので、知っている人が多かった。
場所を知らないのに、職種だけを頼りにパソコンで調べて、
仕事場を探しだして来てくださった方もあった。
お見舞いというよりは、居てもたってもいられなかった…という風情で、
服や数々の物資やお見舞い金を持って訪れてくれた優しい人達。
全員が私達夫婦を見るなり泣いてしまう優しい人達。
その日は休日だったのだが、
中学生だった息子は、制服や文房具など全てがその日のうちに揃い、
次の日には普通に学校に登校することが出来た。
逆の立場なら私はこのように行動出来ただろうか?
否。
前の記事に載せた、消火活動中の黄色いテープの脇のお宅のTさんから始まって
私には到底出来なかっただろうと思う優しさに数えきれない程、直面した。
又、火/災の日は息子の誕生日だと既に書いたが、
長く大変だった一日の終わり、一日中何も食べていなかったにも拘わらず、
私達夫婦は食欲など全くなかったが、子ども達と実母の為に、
実家から一番近いファミレスにでかけた。
その帰り、誕生日どころではない一日だったけれども、
「ホールケーキは準備できなかったけど、ショートケーキでも買って帰ろうか?」と、
息子に言うと「えーっ、誕生日やのにホールケーキじゃないってありえんわー!」と言う。
これを聞くと普通は『中学生にもなって何て幼稚なんだ』
『何て我儘なんだ』と思われるだろう。
それが世間というものだと思う。
しかし、私達夫婦はこの息子の言葉に本当に救われたのだ。
それが親心だ。
つまり息子はこんな日にも、いつもの息子だったのだ。
息子のこのセリフを聞いて私は笑ったし、主人は「それでエエ、それでエエ」と言い、
夜遅くまで開いているケーキ屋さんに行き、
既成のホールケーキにのプレートを付けてもらった。
実家に帰って食べたケーキ、忘れられないバースデー…と言いたいところだが、
どうしても思い出せない…のが事実だ。
只、この息子の言葉に救われたこと、希望どおりケーキを買ってやったことは
はっきり温かい思い出として覚えている。
子ども達は今はもうすっかり大人になったが、
この火/災がその後、何らかの影を落とすことは全くなかった。
そうこうしている時に、娘の手術日が決定した旨、病院から連絡があり、
私達夫婦の不安は大きく膨らんだ。
そんな時、悪いことは続くもので、主人の車が全く動かなくなり、
主人は車のことは全て義姉の長男に任せていたので連絡し、
やむ無く、火/災のことも話した。
この甥っ子は、過去の記事にも書いたが、主人が義親族の中で唯一、
普通に付き合っていた子だ。
主人が自分から火/事になったことを話した唯一の身内だ。
やむを得ず、火/災直後に甥っ子には知らせることになったが、
甥っ子の親である義姉、そして義兄、義弟が私達のところにお見舞いに訪れたのは
それから4ヶ月も過ぎてからだったのだ。
甥っ子にとって主人は叔父。叔父の家が火/事になり、家が全/焼したことを、
親に話さないって、あり得るのか?
普通の親子ではありませんね、お義姉さん!
息子からそれを聞いて、義姉が他の兄弟に話さないって、あり得るのか?
お義姉さんの根性は怨み辛みに凝り固まった般若ですね!
義姉兄弟が皆、自分の兄弟の家が全/焼したと知って、
3人が3人とも、知らん振りが出来るのか?
普通の人間ではないですね。
これも本人から連絡しないのが、いけなかったそうだ。
車で小一時間程のところに住む義弟がそれぞれ[夫婦お揃い]の6人でお見舞いに訪れたのは、
災難から4ヶ月後だった…と、前の記事で結論から書いたが、
もちろん、その4ヶ月は本当に大変だった。
家が全/焼する…それは、想像を絶する災難である。
しかし、私達夫婦には重く重くのしかかる心配事があった。
そう、娘の手術日の連絡待ちの状況だったからだ。
娘の腫瘍はまずは良性と判断されていた。しかし、ここに病名を書いたとしても、
ほとんどの人が聞いたこともないだろう特殊な病名であった。
4件の病院を受診し、移植手術などのニュースで度々、名前の出る日本屈指の大学病院で
やっと病名がつけられた。
又、発症した場所が、その大学病院でも先生方の経験でも<初めて>という難件だった。
私達夫婦はその事に思いを馳せると、火/災のことなど本当に小さなことに感じるのだ。
そして、この火/災が娘と息子にどんな影響を与えるのかも不安だった。
その火/事は皮肉にも息子の誕生日の未明に起こった。
消火活動の終わった夜明けと共に私の実家に避難し、私は実母の服を着て、
ユニクロに家族の服を買いに走った。
そして、消防署にも出向かなければならなかった。
家が全/焼し、ほぼ全ての物を失ったというのに、
1週間以内に失った物全てを書き出せという。
「は?」呆然としてしまったが、それをしなければ保険に影響する。
そんな長い1日の午後、また別の意味で驚くことが起こった。
主人の仕事場に続々といろいろな人が訪れた。
主人の仕事場に行けば、私達に逢えるかも…と考えた人達だ。
主人の仕事場は地域に密着していたので、知っている人が多かった。
場所を知らないのに、職種だけを頼りにパソコンで調べて、
仕事場を探しだして来てくださった方もあった。
お見舞いというよりは、居てもたってもいられなかった…という風情で、
服や数々の物資やお見舞い金を持って訪れてくれた優しい人達。
全員が私達夫婦を見るなり泣いてしまう優しい人達。
その日は休日だったのだが、
中学生だった息子は、制服や文房具など全てがその日のうちに揃い、
次の日には普通に学校に登校することが出来た。
逆の立場なら私はこのように行動出来ただろうか?
否。
前の記事に載せた、消火活動中の黄色いテープの脇のお宅のTさんから始まって
私には到底出来なかっただろうと思う優しさに数えきれない程、直面した。
又、火/災の日は息子の誕生日だと既に書いたが、
長く大変だった一日の終わり、一日中何も食べていなかったにも拘わらず、
私達夫婦は食欲など全くなかったが、子ども達と実母の為に、
実家から一番近いファミレスにでかけた。
その帰り、誕生日どころではない一日だったけれども、
「ホールケーキは準備できなかったけど、ショートケーキでも買って帰ろうか?」と、
息子に言うと「えーっ、誕生日やのにホールケーキじゃないってありえんわー!」と言う。
これを聞くと普通は『中学生にもなって何て幼稚なんだ』
『何て我儘なんだ』と思われるだろう。
それが世間というものだと思う。
しかし、私達夫婦はこの息子の言葉に本当に救われたのだ。
それが親心だ。
つまり息子はこんな日にも、いつもの息子だったのだ。
息子のこのセリフを聞いて私は笑ったし、主人は「それでエエ、それでエエ」と言い、
夜遅くまで開いているケーキ屋さんに行き、
既成のホールケーキに
実家に帰って食べたケーキ、忘れられないバースデー…と言いたいところだが、
どうしても思い出せない…のが事実だ。
只、この息子の言葉に救われたこと、希望どおりケーキを買ってやったことは
はっきり温かい思い出として覚えている。
子ども達は今はもうすっかり大人になったが、
この火/災がその後、何らかの影を落とすことは全くなかった。
そうこうしている時に、娘の手術日が決定した旨、病院から連絡があり、
私達夫婦の不安は大きく膨らんだ。
そんな時、悪いことは続くもので、主人の車が全く動かなくなり、
主人は車のことは全て義姉の長男に任せていたので連絡し、
やむ無く、火/災のことも話した。
この甥っ子は、過去の記事にも書いたが、主人が義親族の中で唯一、
普通に付き合っていた子だ。
主人が自分から火/事になったことを話した唯一の身内だ。
やむを得ず、火/災直後に甥っ子には知らせることになったが、
甥っ子の親である義姉、そして義兄、義弟が私達のところにお見舞いに訪れたのは
それから4ヶ月も過ぎてからだったのだ。
甥っ子にとって主人は叔父。叔父の家が火/事になり、家が全/焼したことを、
親に話さないって、あり得るのか?
普通の親子ではありませんね、お義姉さん!
息子からそれを聞いて、義姉が他の兄弟に話さないって、あり得るのか?
お義姉さんの根性は怨み辛みに凝り固まった般若ですね!
義姉兄弟が皆、自分の兄弟の家が全/焼したと知って、
3人が3人とも、知らん振りが出来るのか?
普通の人間ではないですね。
これも本人から連絡しないのが、いけなかったそうだ。