この、わが家を全/焼した火/災は4件向こう隣のお宅への不審火だった。
犯人が捕まるまでは<放/火>と言わないというのも、この時知った。
火元からわが家までの5件が全/焼した。
わが家は公道に面していたので、そこで火は消火された。
実は4件向こう隣のお宅と同時に、わが家から公道を挟んで斜め向かいのマンションでも
不審火があった。2ヶ所立て続けに火が上がったのだ。
幸い、斜め向かいのマンションの方は車が1台とその周辺を焦がしただけで消火された。
炎がわが家に向かって燃えてくるのを、私達家族もマンションから避難した人達も、
一般の野次馬の人達と一緒に黄色いテープのこちら側から見守っていた。
マンションから避難した方の中には出産して退院されたばかりの母子もおられた。
そんな時、黄色いテープの脇のお宅のTさんが、
家の中で暖をとるよう客間を解放してくださった。
未明の3時である。
普段、道で会釈をする程度のご近所さんだ。
綺麗にお掃除の行きと届いたお家の中で温かいお茶も戴き、暖をとらせてもらった。
新生児を抱えた若い御夫婦には本当に有り難いことだっただろう。
わが家は子どもと言っても大学生と中学生だったので、
何時間か外にいても問題はなかったと思うが、Tさんのご親切が身に沁みた。
想像を絶するような災難に直面して、私達家族が一番最初に受けた人の親切だ。
もし逆の立場だったなら、自分は絶対に出来なかっただろうと思う行動を
初めて示してくださったのが、このTさんだ。
もちろん、わが家がどうなっているのか気になって、Tさん宅にこもっていた訳ではない。
出たり入ったりしていると、
どこからともなく市役所の人が焼け出された家族を見つけては、
市の体育館に緊急避難場所を準備できるがどうするかと尋ねてきたりもした。
とにかく現実は、より現実的だった。
『もし、わが家が火/事に遭ったら…』などと漠然と想像していた恐怖を感じたり、
ましてやドラマのように泣き崩れたり、失神したりしてる暇もない。
これは想像している事と、実際に起こってしまった事のギャップかも知れない。
但し、この火/災では、死/者はもちろん、一人の怪我人も出なかった
…ということが大きく影響しているが…。
…それでも、思うのである。
自己啓発系の本などでは《今を生きる》などと言う。
それと関連するのかどうか分からないが、
想像する…ということは、より恐怖を高めるのは確かだ。
《無駄な想像》《無駄な心配》で無駄な不安に取り憑かれるのは
文字通り、本当に無駄なことだ。
だからと言って、では今から《無駄な想像》止めます❗と、きっぱり止められる程、
シンプルな心理構造の人ばかりではないから、人は苦しむのだろう。
《無駄な心配は止める》とか《今を生きる》、そこにばかり焦点を充てると、
それが出来なかった時、より辛い心が待っているのではないだろうか。
《今を生きろ》というのなら、ではどうすれば今を生きられるのかを皆、教えてほしいのだ。
私の経験では、やはり《そのままの自分》をさらけ出して生きるということが
一番近道だと思う。
そのままの自分でいられる、優しい相手とだけ付き合う。
そして、そのままの自分でいいんだ❗と思えるようになれば、
必然的に<そのままの自分でいられる相手>が増えてくる。
そして案外、立派な自分を頑張っていた時より人から受け入れられる自分を発見したりする。
自分をどう見せるか、という観念から解き放された時、
《今を生きる》ことが出来るように思う。
話しが横道に逸れました。
家から避難して約3時間後、夜明けと共に火は消えた。
火が消えたのを確認し、消防署の人と話しをしてから私達家族は、私の実家に身を寄せた。
実父が亡くなって半年と少し経った頃だったのだが、
また、元気を取り戻しつつあった実母を驚かせてしまった。
ここから私達家族は、初めてご近所のTさんからかけて頂いたような大きなご親切を
いろいろな方々から受け、また一から生活を立て直していく。
やっと、義姉兄弟のことに触れるが、私達家族と、義姉・義兄は車で10分程のところ、
義弟は小一時間程の隣県に住んでいるのだが、この義姉兄弟が火事見舞に訪れたのは……
4ヶ月後だった!
義母が入所してから…
実父が癌だと分かり、1年の闘病の末、亡くなった。
実父が亡くなってから、4ヶ月後に、娘に腫瘍があることが分かった。
4つの病院を回り、あらゆる検査をして病名を付けてもらえたのは更に2ヶ月後。
その時、一応《良性》と言ってもらえた。
一応…と書いたのは、担当医となった部長先生から
「腫瘍というのは、本当に良性か悪性か確定できるのは摘出してから」
という説明を受けたからだ。
摘出手術を受けることになったが、
その順番は96番目という気の遠くなるような数字だった。
順番が回ってくるまで、病院からの連絡を待つという状況で1ヶ月とちょっと経ち、
心に鉛を抱えたような日々を送っていた頃、その日はやってきた。
いつも寝るのは遅い方だが、その日も1時頃にお布団に入った。
3時頃、いつもはゆすっても起きない娘が、私達夫婦の寝室にやってきて、
「ママ、何か外で『火/事!』って、騒いでるねんけど…」と切迫感のない感じで言う。
主人も私も「え~?」と、面倒くさいなと思いながら起き、
主人が2階にある寝室の窓から外を覗き、「火/事!」と大声で叫びながら走り回っている人に
「何処が?」と訊ねた。
その人は「○○!」と、わが家から4件向こう隣の家の名を言った。
《仕方なく》と言った感じで、私達4人は起き上がり、
パジャマの上にダウンを着て(そう、季節は真冬だった…)、
私と子ども二人は近眼なのでコンタクトをした。
そして時代を現しているが、それぞれが自分の携帯のみを持ち、愛犬1匹を連れて外に出た。
何となく《ちょっと避難して、どうせスグに戻るだろう》という気持ちがあったと思う。
目の前にある財布など一式入ったバッグも持たずに外に出た。
《スグに戻るだろう》という気持ちとは裏腹に「人間とわんこさえ無事だったらいいよ」
などと言いながら。
外に出て、4件隣の火元の家への通路を覗いてみると、
今まで見たこともない炎が上がっていた。
さすがに息子が「もう、何やってんの、早く行こうよ!」と怖がった。
消防車が来て、わが家のある1ブロックは黄色いテープが張られ、
何か持ち出せば良かったかな、、という思いがかすめた時には、
家の側には近付けなかった。
高くあがる炎を見ながら、それでも4件隣なのだから、
わが家に来るまでに、消防士さん達が消してくれるだろうと思っていた。
火元の家は5件並んでいる家の端で、その向こう側はマンション。
わが家は5件の反対側の端で、公道に面していた。
炎はマンションも焦がしたが、木造の家の方へどんどん燃えていった。
そのマンションにはとても親しい人達がいたのでメールで緊急を知らせたりした。
火元のお隣の家の奥さんは「早く消して!まだローン残ってるねん!」と叫んでおられた。
建て直しをしてわずかしか経っていなかったのだ。
お気の毒で見ていられなかったが、スグにそのお宅に燃え移った。
そういうわが家も、1ヶ月前に、娘の病気がはっきりしてから一部屋リフォームしていた。
わが家でありながら、野次馬一般の人達と一緒に、
黄色いテープのこちら側から見ているしかなかった。
見た目には、炎が到達するよりも先に、わが家の2階の角という角から
モクモクと細い煙が勢いよく吹き出したはじめた。
『(アンパンマンの)パン工場みたい』と、実際声に出したことを覚えている。
わが家に梯子をかけ、消防士さんが2階の窓を鉄棒でガンガン割ろうとしているのを見た時には
『あぁ、こんなことなら2階の窓の鍵、解除してくれば良かったな』とも思った。
そう、現実はドラマのようではなく、泣き叫ぶどころか、
私達家族は誰も涙一つ流さなかった。
とうとうわが家に火が到達し、自分の家の窓の中が真っ赤に燃えているのを見て、娘に
「○○ちゃん(娘)、もう小説でも書くしかないなぁ」と語った。
娘も「ホンマやね」と答えていた。
私達家族が避難してから3時間後に消火され、私達の家は全/焼した。
何か書いていても作り話のようだ。そして、思うより書きすすめるのに苦労した。
もうとっくに乗り越えているが、やはり脳が辛いことと記憶しているようだ。
更に作り話のようだが、現実は小説より奇なり…
この日は息子の誕生日だった。
実父が癌だと分かり、1年の闘病の末、亡くなった。
実父が亡くなってから、4ヶ月後に、娘に腫瘍があることが分かった。
4つの病院を回り、あらゆる検査をして病名を付けてもらえたのは更に2ヶ月後。
その時、一応《良性》と言ってもらえた。
一応…と書いたのは、担当医となった部長先生から
「腫瘍というのは、本当に良性か悪性か確定できるのは摘出してから」
という説明を受けたからだ。
摘出手術を受けることになったが、
その順番は96番目という気の遠くなるような数字だった。
順番が回ってくるまで、病院からの連絡を待つという状況で1ヶ月とちょっと経ち、
心に鉛を抱えたような日々を送っていた頃、その日はやってきた。
いつも寝るのは遅い方だが、その日も1時頃にお布団に入った。
3時頃、いつもはゆすっても起きない娘が、私達夫婦の寝室にやってきて、
「ママ、何か外で『火/事!』って、騒いでるねんけど…」と切迫感のない感じで言う。
主人も私も「え~?」と、面倒くさいなと思いながら起き、
主人が2階にある寝室の窓から外を覗き、「火/事!」と大声で叫びながら走り回っている人に
「何処が?」と訊ねた。
その人は「○○!」と、わが家から4件向こう隣の家の名を言った。
《仕方なく》と言った感じで、私達4人は起き上がり、
パジャマの上にダウンを着て(そう、季節は真冬だった…)、
私と子ども二人は近眼なのでコンタクトをした。
そして時代を現しているが、それぞれが自分の携帯のみを持ち、愛犬1匹を連れて外に出た。
何となく《ちょっと避難して、どうせスグに戻るだろう》という気持ちがあったと思う。
目の前にある財布など一式入ったバッグも持たずに外に出た。
《スグに戻るだろう》という気持ちとは裏腹に「人間とわんこさえ無事だったらいいよ」
などと言いながら。
外に出て、4件隣の火元の家への通路を覗いてみると、
今まで見たこともない炎が上がっていた。
さすがに息子が「もう、何やってんの、早く行こうよ!」と怖がった。
消防車が来て、わが家のある1ブロックは黄色いテープが張られ、
何か持ち出せば良かったかな、、という思いがかすめた時には、
家の側には近付けなかった。
高くあがる炎を見ながら、それでも4件隣なのだから、
わが家に来るまでに、消防士さん達が消してくれるだろうと思っていた。
火元の家は5件並んでいる家の端で、その向こう側はマンション。
わが家は5件の反対側の端で、公道に面していた。
炎はマンションも焦がしたが、木造の家の方へどんどん燃えていった。
そのマンションにはとても親しい人達がいたのでメールで緊急を知らせたりした。
火元のお隣の家の奥さんは「早く消して!まだローン残ってるねん!」と叫んでおられた。
建て直しをしてわずかしか経っていなかったのだ。
お気の毒で見ていられなかったが、スグにそのお宅に燃え移った。
そういうわが家も、1ヶ月前に、娘の病気がはっきりしてから一部屋リフォームしていた。
わが家でありながら、野次馬一般の人達と一緒に、
黄色いテープのこちら側から見ているしかなかった。
見た目には、炎が到達するよりも先に、わが家の2階の角という角から
モクモクと細い煙が勢いよく吹き出したはじめた。
『(アンパンマンの)パン工場みたい』と、実際声に出したことを覚えている。
わが家に梯子をかけ、消防士さんが2階の窓を鉄棒でガンガン割ろうとしているのを見た時には
『あぁ、こんなことなら2階の窓の鍵、解除してくれば良かったな』とも思った。
そう、現実はドラマのようではなく、泣き叫ぶどころか、
私達家族は誰も涙一つ流さなかった。
とうとうわが家に火が到達し、自分の家の窓の中が真っ赤に燃えているのを見て、娘に
「○○ちゃん(娘)、もう小説でも書くしかないなぁ」と語った。
娘も「ホンマやね」と答えていた。
私達家族が避難してから3時間後に消火され、私達の家は全/焼した。
何か書いていても作り話のようだ。そして、思うより書きすすめるのに苦労した。
もうとっくに乗り越えているが、やはり脳が辛いことと記憶しているようだ。
更に作り話のようだが、現実は小説より奇なり…
この日は息子の誕生日だった。
義母が入所してから、わが家でもいろいろなことがあった。
義母の入所後、実父が肺癌であることが分かり、
1年間の闘病の末なくなったのは、過去の記事に詳しく載せた。
実の親が亡くなるというのはやはり辛いもので堪えた。
しかし、親を見送るというのは順番通りであり、殆どの人が通る道だろう。
しかし、実父を見送った4ヶ月後、思いもよらぬことが起こった。
娘が朝起きてきて「腰が痛い❗」と言う。
寝違えたのでは?などと言いながら、私は午前中、仕事をして過ごした。
仕事が終わった時、まだ痛いと言うので、一応病院に行くことにした。
土曜日の午後ということで、家から程近い救急の外科に行った。
ヤブで有名な病院だと分かっていたが、行かないよりマシだということと、
大したことはないだろう…とたかをくくっていたのも確かだ。
腰が痛いと言ってるのに、さすがにヤブで有名なこの病院はレントゲンを撮らないで、
触診をされ「痔」という診断だった。頭の中は「?」だらけだったが、
一応病院へ行って医師に診てもらったという安心感は得た。
しかし、翌日の日曜日も翌々日の月曜日も痛みが取れなかったので、
月曜日の診療時間内に、家から近く設備もそこそこ充実している整形外科に行った。
そこでは、問診票を書いただけで診察の前にレントゲン撮影だった。
レントゲン撮影では尾てい骨の先が少し曲がっていた。
それが当たって痛いのかも、ということだったが、
そういう曲がりは生まれつきである可能性も、強く尻餅を着いた時になる可能性もあり、
急激な痛みが起こるのが不思議ということだった。
そして、その病院でMRI検査もすることになった。
その結果、腰のところに、うっすらと影のような物があった。
「うーん」と唸る院長先生。
もくもくと本格的な不安が込み上げてきた。
医師は「うちの病院ではこれ以上の検査が出来ないので、県立病院を紹介します」と、
言われた。そして、県立病院へ…。
県立病院では腰という場所的にも、婦人科、消化器科など、
ハッキリ覚えていないがいろいろな科で検査を受けた。
そして改めてMRI検査、CT検査も受けた。
結果、外科部長先生の診断は「ここでは病名をつけられない」だった。
そして、更に設備の整った大学病院を紹介すると言われ、2つ候補を挙げられたが、
同じ市内にある大学病院ではなく、日本でも屈指の…
ニュースになるような大きな移植手術などを度々実施している、
隣県の大学病院の方を紹介してもらうことにした。
もう、また次の病院へ…という事態になることだけは避けたかったからだ。
そこを仮にS病院とする。
S病院は流石に、紹介状を携えて訪れたらしい人ばかり、
重症患者ばかりの重苦しい雰囲気だった。
紹介された科の部長先生も、それまでの検査のデータでは病名が付けられないということで、
ここでも病院中を巡り、いろいろな検査を受けた。
やはり、この病院の技師の見立てが欲しいということで、MRIやCTの検査も受けた。
私としては被爆も気掛かりだった。
そして、後日の部長先生の診断は「私も、この病院も初めてのケースで、
私も一生懸命考えて調べました。そして、これだろうと思われます」ということで、
外国語の文献を広げられ、まぁ私にはさっぱり分からないのだが、
病名をつげられた。レントゲンで見えた影は腫瘍だった。
その腫瘍が特別に珍しいというのではなく、出来た場所が非常に特異だったのだそうだ。
先生が調べた中で、アメリカに1件だけ症例があったそうだ。
何でそんな珍しい病気に…。
という気持ちもあったが、何より
《良性》という結果に救われた。
娘が腰が痛いと言った朝から、病名を告げてもらい《良性》と言ってもらうまでに
2ヶ月かかった。この2ヶ月は、私にとっては地獄のような日々だった。
大学病院での検査を終えて、診断は後日に…となった日の夜、
娘の前で動揺してはいけないと、ずっと張りつめていたものが途切れてしまい、
家族が寝静まってから、足を踏み鳴らしてオイオイ泣いてしまった。
翌日、娘から「ママ、昨日泣いてたでしょ?」と言われ、
…自分は腰が痛かった朝から今まで1回も泣いていない、というか我慢してる訳でもない。
もし、悪い病気だったらその時はその時で治療するしかない。
こんなことになって、パパとママの娘に生まれて本当に幸せやったなと思ったわ…
と、笑われた。
わが娘ながらあっぱれと感心したり、また、私自身の親友から
…一番辛いのは本人なんだから、お母さんが泣いたらダメだよ…
と渇を入れられたりもして、私がメソメソしてたらアカン!と気持ちを入れ直した。
この大学病院で腫瘍摘出手術を受けることに決めたが、
《良性》だったからかも知れないが、手術の順番待ちが96番目とかだった。
3~4ヶ月かかるだろう、ということだ。
気の遠くなるような話しだが、病院からの連絡を待って待機することとなった。
この記事では全く義家族のことが登場せず、ブログのコンセプトからすれば
詐欺のような記事だが、義家族と絶縁するまでに避けて通れない出来事であった。
早く義家族との記事に戻りたいのだが、
《義母が入所してから~わが家》の記事をもう1つ書かなければならない。
それはもう、想像を絶する出来事があったからだ。
こんなブログを続けて読んでくださってる方が居られるならば、
もう1つお付きあいください。
義母の入所後、実父が肺癌であることが分かり、
1年間の闘病の末なくなったのは、過去の記事に詳しく載せた。
実の親が亡くなるというのはやはり辛いもので堪えた。
しかし、親を見送るというのは順番通りであり、殆どの人が通る道だろう。
しかし、実父を見送った4ヶ月後、思いもよらぬことが起こった。
娘が朝起きてきて「腰が痛い❗」と言う。
寝違えたのでは?などと言いながら、私は午前中、仕事をして過ごした。
仕事が終わった時、まだ痛いと言うので、一応病院に行くことにした。
土曜日の午後ということで、家から程近い救急の外科に行った。
ヤブで有名な病院だと分かっていたが、行かないよりマシだということと、
大したことはないだろう…とたかをくくっていたのも確かだ。
腰が痛いと言ってるのに、さすがにヤブで有名なこの病院はレントゲンを撮らないで、
触診をされ「痔」という診断だった。頭の中は「?」だらけだったが、
一応病院へ行って医師に診てもらったという安心感は得た。
しかし、翌日の日曜日も翌々日の月曜日も痛みが取れなかったので、
月曜日の診療時間内に、家から近く設備もそこそこ充実している整形外科に行った。
そこでは、問診票を書いただけで診察の前にレントゲン撮影だった。
レントゲン撮影では尾てい骨の先が少し曲がっていた。
それが当たって痛いのかも、ということだったが、
そういう曲がりは生まれつきである可能性も、強く尻餅を着いた時になる可能性もあり、
急激な痛みが起こるのが不思議ということだった。
そして、その病院でMRI検査もすることになった。
その結果、腰のところに、うっすらと影のような物があった。
「うーん」と唸る院長先生。
もくもくと本格的な不安が込み上げてきた。
医師は「うちの病院ではこれ以上の検査が出来ないので、県立病院を紹介します」と、
言われた。そして、県立病院へ…。
県立病院では腰という場所的にも、婦人科、消化器科など、
ハッキリ覚えていないがいろいろな科で検査を受けた。
そして改めてMRI検査、CT検査も受けた。
結果、外科部長先生の診断は「ここでは病名をつけられない」だった。
そして、更に設備の整った大学病院を紹介すると言われ、2つ候補を挙げられたが、
同じ市内にある大学病院ではなく、日本でも屈指の…
ニュースになるような大きな移植手術などを度々実施している、
隣県の大学病院の方を紹介してもらうことにした。
もう、また次の病院へ…という事態になることだけは避けたかったからだ。
そこを仮にS病院とする。
S病院は流石に、紹介状を携えて訪れたらしい人ばかり、
重症患者ばかりの重苦しい雰囲気だった。
紹介された科の部長先生も、それまでの検査のデータでは病名が付けられないということで、
ここでも病院中を巡り、いろいろな検査を受けた。
やはり、この病院の技師の見立てが欲しいということで、MRIやCTの検査も受けた。
私としては被爆も気掛かりだった。
そして、後日の部長先生の診断は「私も、この病院も初めてのケースで、
私も一生懸命考えて調べました。そして、これだろうと思われます」ということで、
外国語の文献を広げられ、まぁ私にはさっぱり分からないのだが、
病名をつげられた。レントゲンで見えた影は腫瘍だった。
その腫瘍が特別に珍しいというのではなく、出来た場所が非常に特異だったのだそうだ。
先生が調べた中で、アメリカに1件だけ症例があったそうだ。
何でそんな珍しい病気に…。
という気持ちもあったが、何より
《良性》という結果に救われた。
娘が腰が痛いと言った朝から、病名を告げてもらい《良性》と言ってもらうまでに
2ヶ月かかった。この2ヶ月は、私にとっては地獄のような日々だった。
大学病院での検査を終えて、診断は後日に…となった日の夜、
娘の前で動揺してはいけないと、ずっと張りつめていたものが途切れてしまい、
家族が寝静まってから、足を踏み鳴らしてオイオイ泣いてしまった。
翌日、娘から「ママ、昨日泣いてたでしょ?」と言われ、
…自分は腰が痛かった朝から今まで1回も泣いていない、というか我慢してる訳でもない。
もし、悪い病気だったらその時はその時で治療するしかない。
こんなことになって、パパとママの娘に生まれて本当に幸せやったなと思ったわ…
と、笑われた。
わが娘ながらあっぱれと感心したり、また、私自身の親友から
…一番辛いのは本人なんだから、お母さんが泣いたらダメだよ…
と渇を入れられたりもして、私がメソメソしてたらアカン!と気持ちを入れ直した。
この大学病院で腫瘍摘出手術を受けることに決めたが、
《良性》だったからかも知れないが、手術の順番待ちが96番目とかだった。
3~4ヶ月かかるだろう、ということだ。
気の遠くなるような話しだが、病院からの連絡を待って待機することとなった。
この記事では全く義家族のことが登場せず、ブログのコンセプトからすれば
詐欺のような記事だが、義家族と絶縁するまでに避けて通れない出来事であった。
早く義家族との記事に戻りたいのだが、
《義母が入所してから~わが家》の記事をもう1つ書かなければならない。
それはもう、想像を絶する出来事があったからだ。
こんなブログを続けて読んでくださってる方が居られるならば、
もう1つお付きあいください。