選択と集中ができるようになったのは、

様々な経験をしたからだと思う。

 

 

 

 

1万時間の法則

 

人は何かになりたいからと言って、

なれるものではない。

 

1万時間の法則というのがある。

何かの専門家になるには、

10,000時間の努力が必要だとか。

 

1万時間はどのぐらいのものなのか?

例えば、1年365日ある中の300日に

1日1時間の勉強をすれば、

約32年頑張ればその分野のExpertと

呼ばれるようになるということだ。

 

1日2時間なら、約16年

1日4時間なら、約8年

1日8時間なら、約4年。。。

そして、1日10時間なら、約3年というざっくりした計算になる。

 

考え方は様々だ。

そもそも、1万時間の法則をどう思うかも含めて。

 

だが、一般論としていえるのは、

勉強や努力や経験で、

ある程度の知識やスキルを積み上げないと、

何か「できる」とは言えないだろうし、

世間からもそうは見てもらえない。

 

12歳で日本語を勉強し始めたが、

大学に入って本当の「勉強」というものを知った。

 

授業、アメフト、バイト、そして音楽活動で、

朝から夜まで時間ぎっしりだったので、

毎日夜中に4時間ほど勉強を取ってた。

 

睡眠は1日4時間と日中の15分の昼寝だけだった。

このスパルタ生活を2年続けたが、

そのおかげで日本への留学ができた。

 

一年の留学の後、4年生として大学に戻って、無事卒業した。

そして、すぐに大学院で日本近代文学を研究するために日本に戻った。

 

ある出会いの影響なのか、大学院は途中で辞めた僕は、

就職すると決めて、アメリカに帰ることにした。

 

出身地のシカゴに可能性は感じず、

ニューヨークに辿り着いた僕は、そのうちある翻訳会社に入った。

 

当時のニューヨークはインターネットバブルの真っ最中で、

街はお金と希望、そして野望に満ちていた。

 

1999年はグローバル化の第3波の真っ最中でもあり、

グローバル展開に力を入れている企業も急激に増えていた。

自由で開放的、何でも可能に感じる頃だった。

 

グローバル展開の大きな壁は言葉。

 

今や翻訳ソフトや通訳アプリで、プロ翻訳者や通訳者がいなくても、

ある程度のコミュニケーションが取れる時代ではある。

 

しかし、20年前はそういったアプリやソフトもなく、

ものを調べたいときは、まだ太くて重たい辞書を引くか、

余裕があれば、当時流行っていた電子辞書を使うか。

 

何といっても、原稿が手書きのファックスとして入ってくることが、

まだまだ当たり前の時代だった。

 

そんなアナログ時代におけるグローバル展開の

最前線にたっていたのは、言葉のプロである、

翻訳者や通訳者だった。

 

グローバル化をもたらしたのはインターネットの普及ではあるが、

グローバル化を可能にしたのは、言葉の壁を崩してくれる、

翻訳者や通訳者だと言っても過言ではない。

 

しかも、翻訳業界自体はこの20年で急激な成長を見せ続けているが、

当時は小さな業界で翻訳会社も翻訳者もそれほど多くなかった。

 

需要の供給のバランスなんてなかった

 

そんな時代に、僕は翻訳業界に入った。

言えば、需要の供給のバランスが崩れていて、

猫の手を借りてもどうにもならない状態が当たり前だった。

 

朝から普通に出勤しても、帰れる状態になるのは、20時や21時。

金曜日は新規依頼が集中するので、友達と約束事はしないのも、僕たちの中で

一つの暗黙の了解だった。

どうせ約束を破ることになってしまうので、

友達に怒られないために、金曜日はあきらめることが多かった。

 

週末でもセーフではなかった。

当時のニューヨークと言えば、世界の経済の中心だった。

会社も多く、その会社を世話する弁護士や金融機関も多かった。

そして、この会社同士の訴訟も良くあることだった。

 

ベイツ番号の悪夢

 

ある金曜日、訴訟関連の大型案件が受注された。

月曜日までに56000文字の翻訳を納品しなければならない。

通常なら早くて3週間の案件を2つ日間で。それも週末に。

 

こういう無理な案件は初めてではなかったが、

規模は、20年以上の経験で一番厳しい仕事だった。

 

この仕事をこなすには、20人以上のチームを組んで、

役割分担で攻めることになったが、特につらかったのは、

数箱で運ばれてきたプリントの一枚ずつに、

ベイツ番号をスタンプで押していったことだ。

 

 

今や考えられない作業だろう。

 

そして、その作業のためにその金曜日は、

家に帰らずに事務所の床で寝たことだ。

 

ニューヨークにいた3年間は、

このつらい思いや無理な仕事は数々経験した。

 

回りには「よくそんなところで働くね」と、

言われるのもよくあることだった。

 

確かにスパルタの毎日だった。

日本でいう、ブラック企業だと言われても、

頭を縦に振るしかないのかもしれない。

 

しかし、僕はその会社はブラック企業だなんて思わなかった。

 

好きなことをやっていたからか?

好きな分野ならどんなことで耐えてしまうのか?

好きな分野なら、会社にどんな扱いをされても良いのか?

スパルタによって、得るものがあれば、それでもブラック企業なのか?

 

スパルタとブラック企業の線引きはどこに。

これについて、もう少し考えていこう。

 

(続く)