わりと若い頃からはレールに乗せられた人生を送っていた。

小さい頃からも。

 

貧乏だったが、母親とのゲームの時間は宝だった。

 

Scrabbleというボードゲームの時間が一番記憶に残っている。

ランダムで引いた文字で単語を作り、

作った単語の長さや組み合わせ方でポイントをもらう。

 

 

無意識に語彙力と現況に対する意欲を促すゲームだと言える。

 

そのせいか、プレスクールでは何事もすべて早い。

 

貧乏だったが、勉強はできた。

友達はいなかったが、先生に好かれる子だった。

 

小学校でも何事も簡単すぎて。

優等生は先生に好かれるが、

クラスメートに嫌われた。

 

8年制の小学校で、6年の終わりの頃、

成績が良いあまり、飛び級させるが、

転校させるか。そういう話になっていた。

 

貧乏で服はボロボロだったが、成績のおかげで、

立派な学校に行けた。

 

 

そして、人生が一つのレールに乗ることになった。

 

日本語のはじまりも、転校した初日だった。

 

市バスに乗って30分、はじめていく近所に

はじめてみる大きな高校。

 

教頭先生のオフィスに入るなり、

「まずは子の中から外国語を選びなさい」。

 

そういってきたのは、Gilbert先生。

スリムで背が高くて、清楚な雰囲気。

まるで映画に出てきそうな英文学の担任先生。

 

初日でもあり、Gilbert先生の雰囲気に圧倒された僕は、

「Japanese]と、唾を呑みながら返事した。

 

日本語を勉強したいと思っていたわけではなかった。

ただ、唯一触れたことがのある外国語は日本語だった。

 

それは、2年前、小学校4年の担任先生が日本人のハーフだったからだ。

未だに覚えている。先生が毎日持っていた古びたJALの鞄と、

日本語の数字覚えさせられたことや「さくらさくら」歌わされたこと。

 

転校が一つの人生のレールだとしたら、

この緊張しながらの返事は、

汽笛を鳴らし、扉を閉め、「出発進行」と、

駅を出る瞬間だった。

 

その返事の当時は、12歳だ。

 

(続く)