父に救われてきたワタシの話。 | 長女Aは、夢を見る。

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長女A(満50歳)
父と同居を始めてみた。

大学生の息子×2
父の愛犬
ワタシの愛猫

楽しいことばかりじゃないと
重々考えてのことだったけど

想定以上の毎日に
もう笑うしかないわけで。

いや、ほんとは泣いて怒ってばかりだけどさ。

 

 

 

 

 

 

いつも暗めなワタシのブログに

心を寄せて書いてくださった

コメントを読みながら

思い出していたことを

 

 

少し(←ほんと?)書こうかな、と思います。

 

 

けして忘れてはいないけど

 

文章にして、残したくなりましたにっこり

 

 

いつもに増して

ひとりよがりになるかもしれないので

先に謝っておきます指差しギョメン

 

 

 

 

 

 

認知症の父との日々を書いています

現在、要介護1認定の父(77)との日々

 

認知症?と気づく少し前からのこと

レビー小体型認知症と診断を受けたあとのこと

今の日常のどーでもいいこと

 

書くことで

何かが変えられたらいいな、って

思ってるんでしょうね、ワタシは。
 

 

 

 

 

 

およそ10年前、母が卵巣がんで闘病中のこと

 

 

長い抗がん剤治療と再発のあとに

母の希望で在宅治療に切り替えた頃

 

 

母はまだ65歳になっていなかったけど

がんのできた場所が悪く

ストーマ(人工肛門)と排尿障害で

障害者3級認定がおりていたので

 

介護保険を使い

毎日の訪問看護や、周りの協力で

比較的穏やかに過ごしていた。

 

家には

近居で休職中のワタシがついていて

 

子どもたちが二人とも小学校低学年だった。

 

 

朝は子どもたちと元夫を送り出して実家に行き

子どもたちの下校で一旦帰宅

そのまま実家に連れてきて

夕飯が終わったら仕事から帰った父とバトンタッチ

元夫が深夜に帰宅したら

実家に泊まりに戻り

早朝自宅に戻る

 

という生活をしていた。

 

 

このときの元夫には

嫌な顔ひとつせず

ワタシの好きなようにさせてくれ感謝をしているが

まぁ、自分に負担がないのなら

全然いいよウインクって人ではあったね笑

 

そして父は優しい人だけど

闘病の戦力にはならない人だった笑

(全然認知症ではなく現役で働いていたころよ)

 

 

容態が悪くなったら入院、となっていて

そのときも1週間ほど入院したのだったか

 

 

退院で、さぁ家に帰るよ、ってとき。

 

 

荷物を運んでくれる弟①と父と

ワタシが病院の駐車場で短い話をした。

 

 

「まぁ、退院してもたいへんだけど

家の方がヤスコさん(母)も元気になるやろ。

姉貴にもうちょっと

頑張ってもらうことになるけどウインク

 

いつもの明るさで言った。

 

 

ワタシはね、正直

 

 

もう頑張れないよ

 

思っていたんだよ。

 

 

病院にも泊まり込んでいたし

 

 

何より先が見えなくて

優しくなれないときもあって

 

 

心はほんとに無理なんだけど

 

そう言えなかったな。

 

 

弟①は、ほんとうに優しい男なんだけど

大雑把でおおらかで真っすぐが裏目なときも。

分担は経済的なことは

ふたりで相談してて

家業は弟①が頑張っていたので

看護はワタシというものだったが

 

「できない」と言えば

そこでまたみんなで考えることになったはずだ。

 

 

でも言えなかった。

 

 

返事もすぐできず

何を言ったらいいのかわからないな、

ってとき。

 

 

横から父が慌てて言ったのだ。

 

 

「え?頑張ってもらうって、

それは無理だろ?

そんなことしたら

A子がダメになってしまう」

 

 

父は、今の現状の双方の空気を読んで

深く考えて言葉を選ぶようなタイプではない。

 

 

ただ、そのときに思ったことを

そのまま口にする人だ。

 

 

戦力にならない自分や弟③(当時実家で同居)が

母自身に看護を断られ笑←理由はイロイロw

ワタシしかいない状況で

 

でも

これ以上このまま続けるなんて

無理だろ?と

父は思っていたのだ。

人任せの部分も大いにあるけど

なんか対策を変えるのかと思っていたら

そのまま頑張ってもらう?

そんなことある?と声に出たのだろう。

 

 

実際、他の方法は思いついていない、というか

この体制が母にとって一番いいと

みんなが思っていたから…

 

 

そうだよね…そうか……

 

 

ここで初めて弟①がトーンを落とした声になる。

 

 

このあと、どうしたか

 

 

細かいことは覚えていないんだけど

 

 

確か、母も交えてみんなで話をして

父が週の半分は仕事から外れて

主戦力にならないながらもw

ワタシがいない時間を増やし

実費もつかって訪問看護も医療も増やし

 

 

体制を変えたのではなかったか。

 

物理的に楽になったのとは別に

限界が近いということを

わかってもらえたことが

何より救いになったのだと思う。

 

 

 

母のいた病院には緩和病棟はなく

 

 

緩和ケアのある病院は

だいぶ遠い場所になってしまうのと

入院時(主に夜間)も誰かがいないと…悲しいという

困った人だったのだが

 

 

当然、当時もついてくれてた

ケアマネ先輩には強く勧められていたんだ

緩和ケアを。

家族でできることには、限度があると。

家族内では暗黙の了解で

スルーされていったけれども…

 

 

昔から、元夫には

 

「A子の家族はみんな偽善だ。

思っていることを言わずにいつも笑って

本音じゃなく表面だけ仲がいいんだ

それが気持ちいいからだ」

 

と散々言われていてにっこり

 

 

 

そりゃ、テメーの家族は

相当、無茶苦茶だからな!と

ムッとしていたワタシだったが。

 

 

自分では

もう頑張れない

無理なんだ、と

本音を言えなかった、という点で

当たっているところもあるのかもしれない。

 

 

 劇的に何もかもが変わったわけではなかったが

その父の言葉で

心は救われ

周りの意識も変わり

ワタシの生活も変わった。

 

 

母は入院することに

前向きになり

個室を自分の部屋のようにして

人を呼んで賑やかにしたりした。

 

 

ワタシはこのときの父を

衝撃とともに心に焼き付け

この人を一生大切にしようと

 

 

しようと

 

 

強く思った

 

 

はずだったんだけどなにっこり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

え?こんなオチ真顔

 

 

 

 だって父の真っ直ぐな

子どもを思う気持ちに救われたのは

このときだけではなかったよね。

あったのよ、もっと前に大事なやつが。

 

 

なのにね。

(大問題)

 

 

 

忘れてはいないよ。

 

 

の気持ちで書いてるつもりにっこり

 

 

 

そして今は。

 

 

父の介護にこの先限界が近づいても

本音で救ってくれる

あの時の父は

 

 

そこにはいないはずだ。

 

 

だから、自分自身で

ちゃんと状況を判断できるように

ならなきゃね。