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工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

毛沢東の「冒進」を諭す実務派官僚「実権派」との軋蝶は、不可避であった。現実的基盤を欠いたユートピア思想は、それが見果てぬ夢であるがゆえに、これを現実に引きもどそうとするもうひとつの社会的勢力を恒常的に生みつづけたのである。毛沢東には、このもうひとつの社会的勢力「実権派」は己れに刃向かう「階級敵」としてしか映じなかったのであり、それゆえ毛沢東にとって階級闘争はほとんど恒常的であり、またそれをみずからよしとしてきたのであった。毛沢東のこの階級敵との闘争が、「整風運動」であり、「反右派闘争」であり、「廬山会議」であり、そしてなによりも「プロレタリア文化大革命」であり、つまりは建国後の毛沢東の政治的エネルギーのほとんどすべてが、毛流の階級闘争のためについやされてきた。


郵の現実主義は他の指導者のいずれに比較してもいっそう徹底したものであった。この現実主義は、これを追求すればするほど当の社会主義それ自体がすっかり「脱色」してしまい、はたしてこれがほんとうに「社会主義」なのかといぶからざるをえないまでに、「後退」してしまうほどのものであった。郵小平のイメージしている社会主義は、もういちどいえば「生産力主義」である。「社会主義を建設するには、かならず生産力を発展させなければなりません。貧困は社会主義ではありません。われわれは当然、社会主義を堅持します。だが、資本主義よりも優位性をもつ社会主義の建設をさらに一歩進めるためには、なによりもまず、貧困からぬけだすことができる社会を建設しなければなりません。

確かに、ある産業での空洞化が進めば、雇用問題を引き起こす。ただ、生産拠点が外国に移転することで過剰となった労働力が解雇されたとしても、これは本来の意味での雇用問題ではない。すなわち、解雇されても新しい職場があれば雇用問題とはならない。円高で有利になる産業が雇用を拡大し、また新しい産業が生まれてくるとすれば、雇用機会は増え、雇用問題とはならないのである。日本の場合は、いわゆる終身雇用制度の存在により労働市場が発達していないために、一旦解雇されるとそれまでの条件と同等の職場を見つけることはきわめて難しくなる。そこで、雇用の拡大だけでなく、雇用システム自身を改革する必要が生じる。


空洞化は外国で生産することが有利な部門だけが外国に行くわけであり、すべての企業が外国に行くわけではない。日本で行うより外国のほうが相対的に有利になって外国に資本が流出することは、その分だけ相対的に日本で生産することが有利な産業は国内の資源をより多く利用できるわけである。すなわち、空洞化は既存産業の雇用を減らすが、同時にその余力ぱ新しい産業にチャンスを作っていく。産業がスムーズに転換していくためには規制緩和の問題はあるが、産業構造の変化が日本経済の新たな活力の源泉となるのは間違いない。


日本で生産するのが相対的に不利で不要な産業が出て行き、相対的に効率の高い産業が残ることになれば、日本経済全体の効率を高めることになる。確かに、日本経済の中で企業の一部が外国へ移ることは、国内の資本の一部が外国へ移るのであるから、それだけでは国内の生産には減少要因となる。しかし、その企業で雇用されていた経済資源はより効率の高い産業に雇用されることになり、全体とすれば生産の水準が上昇するはずである。経済の効率が高まっているのに経済活力が低下するはずがない。


すなわち、空洞化は産業の効率化にとって必要なこととなる。比較優位のある産業に特化することが経済の効率を高める。問題はスムーズに産業構造の転換が行われるかどうかである。さらに、空洞化は経営の判断の問題であって、日本経済の問題ではない。企業はいずれ潰されることになる限界企業になりたくないために努力する。このことが日本経済の効率を進め、人々を豊かにしていくのである。

世界経済のなかでの日本経済の姿も、人口の高齢化によって、大きく変化するのである。この関係は、つぎのようにして理解できる。貯蓄は、国内の投資にあてられるか、あるいは海外 への投資にあてられるかである。ところで、経常収支の黒字は、長期的には日本の対外投資に等しい。したがって、貯蓄投資差額と経常収支の黒字は、長期的には等しくなる。「人口の高齢化によって貯蓄率が下がるので、現在のうちに投資を行なう必要がある」というのは、個人の場合と似た事情である。若年期、壮年期の貯蓄余力のある時期に将来のための投資を行ない、高齢期に備える必要があるのだ。


日本経済か将来に向けて行なうべき投資の対象としては、さまざまなものがありうる。海外生産拠点に工場を建設することもあるし、国内で研究開発に投資を行なうこともある。社会資本に対する投資も重要だ。また、広い意味でとらえれば、教育のための支出も将来のための投資と考えることができる。これらの投資のうち、とくに社会資本や教育などに関しては、公共主体が重要な役割を果たしている。


ここで重要なのは、将来の社会で有用となるような対象に集中することだ。それに対して、財源として何を用いるかは、必ずしも最重要の課題ではない。しかし、一般には、投資の内容より財源の選択が重要と考えられている。とくに、政府の投資に関して、その財源を公債に求めることが望ましくないという考えが広く信じられている。たとえば、財政制度審議会の財政構造改革特別部会は、二〇〇五年までに国・地方の財政赤字を対GDP比三%以下にすることを提言している。


財政赤字を減らすべきだという意見は、それを家計の借金と同一視することから出てくる。家計の赤字は、家計が使える経済的資源を時間的に変更させる機能をもつ。借り入れの時点では、収入以上に支出をすることができる。逆に返済時点では、収入だけの支出ができなくなる。親が借金をして子供が返済の義務を負う場合には、親の浪費の後始末を子が行なうことになる。


財政赤字もこれと同じ結果をもたらすと考えている人たちが多い。高齢化する日本社会で国債残高を将来世代に残してはならないとの観点から、赤字縮小が必要だといわれる。しかし、政府の赤字は、家計の借金とは基本的に異なるものだ。財政赤字が内国債でまかなわれる限り、それは、一国が全体として使用できる資源総量を時間的に変更する機能をもたないのである。