工具マニアで困ってます -2ページ目

工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

ルネッサンス時代の十六世紀頃から、精神病者を監禁しておく収容所が、各国に建てられはじめた。特にスペインでは、アラビアの影響も受けやすかったためか、十五世紀初めにはもう、セビラ、バルセロナ、トレドなどに精神病者の収容所が建てられている。


ロンドンにかの悪名高い「ベッドラム」が誕生したのは、もとセントマリオ・オブ・ベツレヘム(St. Mary of Bethlehem)という名の修道院だったものを、ヘンリー八世の命を受けて精神異常者の強制収容所にしたものである(1547年)。


収容所とは名ばかりで、高い塔の内部は地獄さながらの光景となり、凶暴な患者はてペニーで見せものに出し、比較的おとなしい患者には、ロンドンの街角でこじきをさせていた。


この二十年後にアメリカ大陸で最初の精神病者収容所がメキシコに設立された。フランスでの最初の施設は、パリ郊外に建てられた、シャランタン精神病院(Ra Maison de Charenton)(1841年)で、十年後にはビセートルに840人収容の精神病院が建てられた。


さて、日本でのその当時の精神病というとごには、六世紀半ばにシナから伝わったといわれるお灸が一番広く、幾時代にもわたって用いられている。アンマや、水治療なども用いられているが、いわゆる普通の治療といえば、ほとんど寺の坊さんによる祈祷や僧侶の儀式だった。

1980年代の中国経済は、物資の増産の数値に関する限りは順調だったが、増産が進んだだけに、産業構造の内部矛盾も増大した。電力、輸送などのインフラストラクチュアの遅れや、鋼材や石炭などの基本素材やエネルギーなどの相対的不足が、工場生産の足枷となり、多くのプラントの稼働率が低下した。国営企業は次々と新工場を建設したが、海外からせっかく新鋭プラントを導入しても、多くは使いこなせず、その生産効率の悪さが目立った。

多くの人材と多額の国家資金をつぎ込んでも、その割には経済的成果が上がらないのだから、インフレーションがひどくなったのも当然である。1989年の国民総生産は目標の7%を大幅に下回り、前年比3.8%にすぎず、インフレ率は17.8%にもなった。そのインフレが市民生活を直撃したことが、天安門動乱の一つの原因にもなったのである。

政府の経済政策はインフレの抑制を最優先とした。生産活動に直接関係のない建設事業は、ほとど中途で停止となった。1989年の秋に雲南省に出かけたのだが、省都の昆明では、大きなホールや体育館などの工事が軒並み打ち切られて、コンクリートの骨組みが人気もなく、空しく横たわっていた。

当時の中国での景気調節は、金融機関の貸し出しや公定歩合のコントロールによるよりも、政府の基本建設の推進や抑制によるところが大きかったのである。「これが社会主義の景気調節なのだな」と、私はしげしげとその風景に見入った。中国の政治も経済も重大な危機に陥った。危機はますます深まると、中国から海外に亡命した学生や知識人が語っていたが、2年後の1991年に思わざる援軍が現れた。

インフレがかなり鎮静したうえに、輸出も輸入も急激に伸び始めたのである。内需がすっかり冷え込んだので、国営企業も農村部の郷鎮企業も輸出に力を注がざるを得なかったのだが、それが、とりわけ香港とアメリカに向かったのである。天安門動乱の時は、香港の学生や知識人は盛んに反中国政府キャンペーンを展開し、アメリカは海外諸国の中では、最も声高に中国政府と解放軍の人権揉願を非難したのだが、その二つが中国経済の救い主となった。

結婚式 無駄

住民側か市町村を選択する時代に入ったということもできる。これは、保健や福祉をまじめにやらない市町村長ぱ、次の選挙では落選するという側面も持っている。市町村長はうかうかできないことにもなる。どういうわけか、保健や福祉に熱心な市長村長は、介護保険の成立にも前向きの人が多い。目線が住民のほうにあるのか、自分の市町村の台所だけを考えているかの違いのようだ。


高齢社会に対応するために、政府はゴールドプランを推進しているが、そのポイントのひとつは、老人にたいするサービスの総合化である。地域の保健・医療・福祉のシステムがきっちりとつくられ、この三つが統合化されて、コソトロールータワーがあって、それが作動していなければならない。


現在のところ、これらの条件を満たしている地域はまだ少ない。そのなかで、もっとも早くから整備され、活動しているのが広島県御調郡御調町にある公立みつぎ総合病院(山口昇管理者)である。みつぎ総合病院が組織化している地域包括システムのひとつずつをごくかんたんに説明しよう。


一般病床二二〇床、診療科目一五、職員数三一六人(うち医師三〇人)、診療圏域人口約七万人で二次、三次医療を行なっている。理念は包括医療の実践で、このため院内に健康管理センターを併設して病院保健婦、MSW(ケースフーガ占、介護福祉士等を設置している。


一九八四年四月、院内に行政部門である健康管理センターを併設し、町厚生課の保健担当部門、住民課の福祉担当部門、社会福祉協議会のホームヘルパー、さらに四年後には国保事業もここに移管し、その行政責任者は病院長が兼務、これにより、病院と町厚生課に二分されていた保健婦も一体化され、文字どおり、保健・医療・福祉の連携体制が整った。連携から統合への第一歩であった。一方、町は厚生課と住民課を統廃合して厚生課は廃止され機構改革された。また院長は町長と直結し、町住民課、教育委員等との連携も定例会議を開くなどして緊密である。