中国経済の救世主とは | 工具マニアで困ってます

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1980年代の中国経済は、物資の増産の数値に関する限りは順調だったが、増産が進んだだけに、産業構造の内部矛盾も増大した。電力、輸送などのインフラストラクチュアの遅れや、鋼材や石炭などの基本素材やエネルギーなどの相対的不足が、工場生産の足枷となり、多くのプラントの稼働率が低下した。国営企業は次々と新工場を建設したが、海外からせっかく新鋭プラントを導入しても、多くは使いこなせず、その生産効率の悪さが目立った。

多くの人材と多額の国家資金をつぎ込んでも、その割には経済的成果が上がらないのだから、インフレーションがひどくなったのも当然である。1989年の国民総生産は目標の7%を大幅に下回り、前年比3.8%にすぎず、インフレ率は17.8%にもなった。そのインフレが市民生活を直撃したことが、天安門動乱の一つの原因にもなったのである。

政府の経済政策はインフレの抑制を最優先とした。生産活動に直接関係のない建設事業は、ほとど中途で停止となった。1989年の秋に雲南省に出かけたのだが、省都の昆明では、大きなホールや体育館などの工事が軒並み打ち切られて、コンクリートの骨組みが人気もなく、空しく横たわっていた。

当時の中国での景気調節は、金融機関の貸し出しや公定歩合のコントロールによるよりも、政府の基本建設の推進や抑制によるところが大きかったのである。「これが社会主義の景気調節なのだな」と、私はしげしげとその風景に見入った。中国の政治も経済も重大な危機に陥った。危機はますます深まると、中国から海外に亡命した学生や知識人が語っていたが、2年後の1991年に思わざる援軍が現れた。

インフレがかなり鎮静したうえに、輸出も輸入も急激に伸び始めたのである。内需がすっかり冷え込んだので、国営企業も農村部の郷鎮企業も輸出に力を注がざるを得なかったのだが、それが、とりわけ香港とアメリカに向かったのである。天安門動乱の時は、香港の学生や知識人は盛んに反中国政府キャンペーンを展開し、アメリカは海外諸国の中では、最も声高に中国政府と解放軍の人権揉願を非難したのだが、その二つが中国経済の救い主となった。

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