あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
「ほかに何ものをも神としてはならない」2013年10月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
十戒は,キリスト教徒にとってもユダヤ教徒にとっても信仰の基盤となるものです。神からイスラエルの子らに預言者モーセを通して与えられたこの十戒のうち,最初の二つの戒めは,わたしたちの礼拝とわたしたちの優先順位について説いています。最初に主はこう命じられました。「あなたはわたしのほかに,なにものをも神としてはならない。」(出エジプト20:3) それから何世紀もたって,「律法の中で,どのいましめがいちばん大切なのですか」と尋ねられたイエスは,「心をつくし,精神をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神を愛せよ」とお答えになりました(マタイ22:36-37) 。
十戒の2番目の戒めは,ほかに何ものをも神としてはならないという指示をさらに詳細に述べたもので,神の子であるわたしたちの生活の中で究極の優先順位はどうあるべきかを明らかにしています。「あなたは自分のために,刻んだ像を造ってはならない。」そして,天にあるものも地にあるものも「どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト20:4) この戒めにはさらにこう加えられています。「それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。」(出エジプト20:5) この戒めによって,単に目に見える偶像が禁じられただけでなく,あらゆる時代に共通する基本的な優先順位が教えられています。エホバはさらにこう説明しておられます。「あなたの神,主であるわたしは,ねたむ神である〔。〕……わたしを愛し,わたしの戒めを守るものには,恵みを施〔す〕であろう。」(出エジプト20:5-6) このねたむという語には深い意味があります。この語のヘブライ語の原文の意味は,「傷つきやすく深い感情を有する」ということです (出エジプト20:5)。このように,わたしたちが,ほかの神に「仕える」とき,つまり,第1の優先順位をほかのものにするとき,神の感情を傷つけるのです。
では今日,人が,場合によっては信仰心の篤い人でも,神を差し置いて「仕え」る,ほかの優先順位にはどのようなものがあるでしょうか。次のようなものの可能性について考えてみましょう。どれもわたしたちの世界には普通のものです。
文化的な伝統や家族の伝統
政治的公正
出世願望
物の所有
娯楽の追及
権力,名声,地位
こうした例がわたしたちの中のだれ一人にも当てはまらないようなら,当てはまりそうな例をほかにも挙げられるでしょう。原則は,個々の例よりもはるかに大切です。原則は,わたしたちにはほかに優先するものがあるかどうかではありません。第2の戒めが提示している問いかけは,「わたしたちの究極の優先順位は何か」ということなのです。わたしたちが礼拝していると公言している神よりも上に,ほかの優先事項やほかの神々を置いて,仕えてはいないだろうか,もしわたしを愛するなら,戒めを守るべきであると教えられた救い主に従うことを忘れてはいないだろうか,ということなのです(ヨハネ14:15) 。もしそうなら,わたしたちの優先順位は,霊的な無関心やわたしたちの時代にはびこっている無節操な欲望によって,まったく逆転していることになるのです。


