ヨハネ1:1,38-39
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
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イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。
「主は,飢えている者を良いもので飽かせなさいます」(英文)1998年10月、ジエフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
皆さんは覚えておられると思いますが, アンデレともう一人の弟子, 恐らくヨハネは最初にキリストの御言葉を聞いたときに, 深く感動して, イエスに引きつけられ, 群衆を後にする主に従って行きました。キリストは御自分の後についてくる二人に気づいて振り返り, お尋ねになりました。「何か願いがあるのか。」(ヨ八ネ1:38) 彼らが「どこにおとまりなのですか」あるいは「どこにお住まいですか」と聞くと, キリストは「きてごらんなさい」(ヨハネ1:39)とだけ言われました。それから間もなく, キリストはペテロとほかの新しい使徒たちを同じような霊的な招きをもって, 正式に召されました。キリストは彼らに「わたしについてきなさい」(マタイ4:19)とおっしゃいました。
わたしたちのこの世の旅の本質と,人生で最も重要な疑問に対する答えは, 結局, 救い主の地上における業のごく初期に見られる二つのとても簡潔な要素に集約されるようです。1番目の要素は地上に住む「あなたがたは何を求めているのか。何が欲しいのか」というわたしたち一人一人に対する問いかけです。そして2番目の要素は,わたしたちがどう答えるかに関係なく、わたしたちの答えに対する主の反応です。わたしたちがどのような人間で,どのように答えるかに関係なく,主はいつも「従ってきなさい」という答えをなさいます。愛を込めて「わたしについてきなさい」とおっしゃるのです。どこへ行くにしても,まず来て,わたしのすることを御覧なさい。わたしがどこで, どのように時間を使うかを御覧なさい。わたしに学びなさい。わたしとともに歩き,語り,そして信じなさい。わたしの祈りに耳を傾けなさい。そうすれば, あなた自身の祈りに対する答えを見いだすことでしょう。神があなたがたの魂に休みを与えてくださるでしょう。わたしに従ってきなさい。
わたしたちは声と心を一つにして,イエス・キリストの福音がひどい霊的な飢えと渇きを満たす唯一の道であることを証します。わたしたちがこの時代に受けている傷を癒す方法を御存じなのは, 自らもひどい肉体的な苦しみを味わわれた主だけなのです。神とともにいて,神であられた御方(ヨハネ1:1)だけが,わたしたちの魂の最も奥深くにある,切なる願いにこたえられるのです。死と地獄の扉を開け放つことができるのは,主の全能の腕だけでした。それがなければわたしたちは永遠に束縛の境涯にとどめられていたのです。わたしたちを乗せて,日の栄えの栄光へ連れて行けるのは主の勝利の肩だけです。それはわたしたちがそれぞれの忠実さによって選択しさえするならば可能なことなのです。
自分は主の食卓に着く権利を失ってしまったと感じているかもしれない人々に対して,わたしたちは預言者ジョセフ・スミスとともに,「神は罪を赦してくださる御方」(Lecture on Faith, Joseph Smith, p42)であり, キリストは「憐れみに富み, 恵み深く, 怒ること遅く, 長く堪え忍び, 慈しみに満ちた御方」(Lecture on Faith, Joseph Smith, p42)であられることを再度お伝えします。わたしは, マタイが記した「それだから, あなたがたの天の父が完全であられるように, あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)という救い主の御言葉を読むといつもうれしくなります。ルカも主のほかの御言葉を次のように記しています。「あなたがたの父なる神が慈悲深いように, あなたがたも慈悲深い者となれ。」(ルカ6:36) あたかもそれは,「憐れみ」は,神が有しておられ,わたしたちがそれに向かって遭進すべき「完全」という特質の同義語であると説いておられるかのようです。憐れみは,それと深く結びついた赦しという徳性とともに,イエス・キリストの贖罪と永遠の救いの計画のまさに中核を成すものです。福音のすべては,わたしたちは自分が必要と思えば変わることができ,心から望むなら助けを受け,過去にどのような問題があったにしても癒しが得られると教えています。


