「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -426ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従って来なさい」

 

 

ヨハネ1:45-47
このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。 ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。


「最高の自分になる」(英文)、1999年10月、トーマス・S・モンソン、大管長会
主は地上で教導の叢に携わっていたとき.最高の自分になるには,どのように生活し,教え,奉仕し,そして何を行えばいいのか説明されました。

その教えの一つがヨハネによる福音書にあります。「ピリポがナタナエルに出会って言った, 『わたしたちは,モーセが律法の中にしるしており,預言者たちがしるしていた人,ヨセフの子,ナザレのイエスにいま出会った。』

ナタナエルは彼に言った,『ナザレから,なんのよいものが出ようか。』ピリポは彼に言った,『きて見なさい。』

イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て,彼について言われた,『見よ,あの人こそ,ほんとうのイスラエル人である。』」(ヨハネ1:45-47)

この世の旅では,使徒パウロの勧告が天からの導きを与えてくれます。「すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい。」そして,結びの勧告が続きます。「わたしから学んだこと,受けたこと,聞いたこと,見たことは,これを実行しなさい。そうすれば,平和の神が,あなたがたと共にいますであろう。」(ピリピ4:8-9)

最高の自分を求めるには.幾つかの質問について考える必要があります。自分は何になりたいですか。今日は昨日より救い主に近づきましたか。明日はもっと近づけますか。向上するために変わる勇気を持っていますか。

今こそ,これまでしばしば忘れられていた道,「家族の道」を選ぶ時です。そうすれば,こどもや孫たちはほんとうに成長し,可能性を十分に発揮するでしょう。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ1:1,14
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 … そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 


「しかしわたしたちは,彼らのことを気に留めなかった」2022年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会 (1ニーファイ 8:33)
興味深いことに,使徒ヨハネはイエス・キリストを「言葉」と表現しています。(ジョセフ・スミス訳ヨハネ1章参照、リンクは英文)

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……

すべてのものは,これによってできた。できたもののうち,一つとしてこれによらないものはなかった。……

そして言は肉体となり,わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって,めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1:1,3,14)

したがって,「言葉」ヨハネ1:1,141ヨハネ1:1黙示録19:13教義と聖約93:8-10モーセ1:32はイエス・キリストの名称の一つなのです。

さらに,信仰箇条第8条には,こう記されています。「わたしたちは,正確に翻訳されているかぎり,『聖書』は神の言葉であると信じる。また,『モルモン書』も神の言葉であると信じる。」(信仰箇条1:8)

このように,聖典に記されている救い主の教えもまた,「言葉」なのです。

神の言葉にしっかりつかまるには次のことが必要だと提案します。(1)回復された福音の聖約と儀式を通して,救い主と御父との個人的なつながりを思い起こし,尊重し,強めること,(2)神聖な聖文および生ける預言者と使徒の教えを啓示された真理の確かな源として,祈りの気持ちで,熱心に,そして一貫して用いることです。主と結ばれ,主に「しっかりとつかまり」,主の教義に従って生きることによって変わることができれば,わたしたちは個人としても全体としても祝福され,「聖なる場所に立ち,動かされない」(教義と聖約45:32)ことをお約束します。わたしたちがキリストにつながっているならば,主はわたしたちとつながり,わたしたちとともに歩んでくださいます。主は確かに「試しの日の後には,栄えをたもう」てくださいます。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ1:29
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。…」

 

 

「イエスの教え」2011年10月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
贖罪


救い主の地上における務めは,主の復活と世の罪のための贖罪によって絶頂を迎えました。バプテスマのヨハネはこのことを預言して次のように言っています。「見よ,世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29) 後にイエスはこのように教えられました。「人の子がきたの〔は〕……仕えるためであり,また多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである……。」(マタイ20:28) マタイの記録によれば,イエスは最後の晩餐で,御自分が祝福されたぶどう酒は「罪のゆるしを得させるようにと,多くの人のために流すわたしの契約の血である」と説明されました(マタイ26:28)

復活された主はニーファイの民に現れ,進み出てわきの傷と手足の釘くぎの跡に手を触れるようお招きになりました。主はその理由をこう説明されました。「わたしがイスラエルの神であり,全地の神であること,そして世の罪のために殺されたことを知りなさい。」(3ニーファイ11:14) さらに話は続きます。群衆は「イエスの足もとに伏して,イエスを拝し」ました(17節)。贖罪のゆえに,全世界は最終的に主を礼拝するようになるのです。

イエスは贖罪に関するさらに貴い真理を教えられました。救い主の教えの詳細と,主の使命に関する最良の説明を収めたモルモン書には,この教えについてこのように記されています。

「父は,わたしが十字架に上げられるようにと,わたしを遣わされた。……わたしはすべての人をわたしのもとに引き寄せた。

……彼らが各々の行いに応じて裁かれるようにするのである。

さて,悔い改めて,わたしの名によってバプテスマを受ける者はだれであろうと,満たされるであろう。そして,最後まで堪え忍ぶならば,見よ,わたしはその者を,わたしが立って世の人々を裁くその日に,わたしの父の御前で罪のない者としよう。……

清くない者は,決して父の王国に入ることができない。したがって,信仰を持ち,罪をすべて悔い改め,最後まで忠実であることによって,わたしの血により衣を洗われた者のほかには,父の安息に入る者はいない。」(3ニーファイ27:14-16,19)

このように,イエス・キリストの贖罪は,罪がもたらす霊の死を克服し,神聖な聖約を交わし守ることを通して永遠の命の祝福にあずかる機会を与えてくれることが分かります。