ヨハネ1:1,14
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 … そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
「しかしわたしたちは,彼らのことを気に留めなかった」2022年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会 (1ニーファイ 8:33)
興味深いことに,使徒ヨハネはイエス・キリストを「言葉」と表現しています。(ジョセフ・スミス訳ヨハネ1章参照、リンクは英文)
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……
すべてのものは,これによってできた。できたもののうち,一つとしてこれによらないものはなかった。……
そして言は肉体となり,わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって,めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1:1,3,14)
したがって,「言葉」(ヨハネ1:1,14、1ヨハネ1:1、黙示録19:13、教義と聖約93:8-10、モーセ1:32)はイエス・キリストの名称の一つなのです。
さらに,信仰箇条第8条には,こう記されています。「わたしたちは,正確に翻訳されているかぎり,『聖書』は神の言葉であると信じる。また,『モルモン書』も神の言葉であると信じる。」(信仰箇条1:8)
このように,聖典に記されている救い主の教えもまた,「言葉」なのです。
神の言葉にしっかりつかまるには次のことが必要だと提案します。(1)回復された福音の聖約と儀式を通して,救い主と御父との個人的なつながりを思い起こし,尊重し,強めること,(2)神聖な聖文および生ける預言者と使徒の教えを啓示された真理の確かな源として,祈りの気持ちで,熱心に,そして一貫して用いることです。主と結ばれ,主に「しっかりとつかまり」,主の教義に従って生きることによって変わることができれば,わたしたちは個人としても全体としても祝福され,「聖なる場所に立ち,動かされない」(教義と聖約45:32)ことをお約束します。わたしたちがキリストにつながっているならば,主はわたしたちとつながり,わたしたちとともに歩んでくださいます。主は確かに「試しの日の後には,栄えをたもう」てくださいます。
