「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -425ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ3:17
また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」


「わたしたちの完全な模範」(英文)2009年10月、ヘンリー・B・アイリング、大管長会
わたしたち全員にとって,日々の生活の中で自分の愛が増し,わたしたちの完全な模範である救い主に似てきていることに気づくのは難しいことかもしれません。わたしは皆さんを励ましたいと思います。皆さんにはもっとイエスのようになる道を歩んでいる証拠があります。時々,不安や試練の中で,自分が幼子のように感じたことがあるのを思い出してください。子供たちがあの歌を歌っている様子を思い浮かべてください。あの子供たちのように「わたしもなりたい イエス様のように」と歌いたいと思ったときのことを思い出してください。多分それはそんなに昔のことではないでしょう。イエスが弟子たちに子供たちを連れて来なさいとおっしゃったことを思い出してください。「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。……神の国はこのような者の国である。」(マルコ10:14) 皆さんはイエスのようになろうとしたときに,汚れのない幼子が抱く平安を感じたことがあるはずです。

それは皆さんがバプテスマを受けたときだったかもしれません。主にはバプテスマが必要ありませんでした。清くあられたからです。でも皆さんがバプテスマを受けたとき,皆さんは洗われて幼子のように清くなったと感じました。主がバプテスマを受けられたとき,天が開き,主は天の御父の声をお聞きになりました。「これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である。」(マタイ3:17) 皆さんには声が聞こえませんでした。でも,イエスがなさったとおりに行ったことを天の御父が認めておられるのを感じたはずです。

今日出て行って,主がなさったように行い,主が愛しておられるように愛する機会を探してください。そうすれば,子供のころに感じた平安が皆さんをしばしば訪れ,皆さんのもとにとどまることを約束します。主が弟子たちにされた約束は真実です。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。」(ヨハネ14:27)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ3:8
だから、悔改めにふさわしい実を結べ。


「悔い改め」(英文)1991年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
罪を認めると,本当の悲しみが心を覆います。その悲しみは,「この世の悲しみ」でも「神の御前から断ち切られた者の悲しみ」でもなく,二度と「罪悪を犯して楽し〔む〕」ことのない「神のみこころに添うた悲しみ」です。(2コリント 7:10 ;モルモン2:13) それに対し,偽りの悲しみは,自分の弱点を哀れむようなものです。ただ形式的に後悔するだけでは,間違いを嘆くことはあってもそれを改めるところまではいきません。

心から悔い改めるには,みずから苦しみ,十分な時間をかけて罪を清め新たな出発をしなくてはなりません。単に悲しみの感情が収まるのを待つだけでは十分とは言えません。苦難と同様,心の痛みもときには私たちの益になることがあります。悔い改めが本当に行なわれるまでは,たびたび懲らしめが必要だというのももっともなことです。教義と聖約 1:27;ヒラマン12:3 参照)

本当の悲しみはすぐに良いしるし,すなわち「悔改めにふさわしい実」マタイ3:8使徒26:20;アルマ5:54参照)を生じます。「時がたって」モーセ7:21) その実はつぼみとなり,花が咲き,実をつけるのです。

信仰によって歩む道のりのうちで,悔い改めほど困難な道はほかにありません。しかし,「悔改めを生じる信仰」(アルマ34:16)を持っていれば,道をふさぐ障害物を取りのけ,前進して神に慈悲を請うことができます。真心から悔い改めた人は,自分自身をすべて神に捧げます。神のみ前にひたすら身を投げ出し,人がどう思うかではなく,神がどう思われるかにのみ心を砕くのです。そして謙遜な気持ちでこう言うのです。「あなた御自身のことをわたしにお知らせください。わたしはあなたを知り、……自分の罪をすべて捨てます。」(アルマ22:18)すべての罪を捨てること,これ以外に神を知る道はないのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ3:9
自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。


「高ぶりを心せよ」(英文)1989年4月、エズラ・タフト・ベンソン、大管長
ほとんどの人は,高慢というと「自己中心」,「うぬぼれ」,「自慢」,「尊大」,「傲慢」などの言葉を思い浮かべます。確かにこれらはみな,高慢の罪の中に数えることができますが,核心となるものが抜けています。

高慢の中心をなすのは「敵対心」,すなわち神と同胞に対する敵対心です。敵対心は「憎悪,敵意,反感」などを意味します。サタンは,この力によって私たちを支配しようとします。



高慢はもうひとつ,争いという形でも現われます。争い,論争,けんか,「不正な支配」,世代の断絶,離婚,伴侶の虐待,暴動,騒乱,これらはすべて高慢の範ちゅうに加えられるべきものです。

家庭内の争いは主のみたまを遠ざけます。また,家族の多くを遠ざける結果にもなります。争いの範囲は,憎しみの言葉から,果ては世界的な紛争にまで及びます。聖典には「高ぶりはただ争いを生じる」(蔵言13:10) とあります。(蔵言28: 25参照)

聖典には,高慢な人は容易に怒り,恨みを抱くと書かれています。(1ニーファイ16:1-3参照)そして,相手に責任を負わせたまま赦しを与えず,自分の傷ついた気持ちだけを正当化しようとします。

高慢な人は,勧告や矯正を容易に受け入れません。蔵言15:10;アモス5:10 参照)彼らは自分の弱点や失敗を正当化し,合理化するため自己弁護に終始します。マタイ3:9 :ヨハネ6:32-59参照)



高慢の治療薬は謙遜です。柔和と従順です。アルマ 7:23参照)「打ち砕かれた心と悔いる霊」です。(3ニーファイ9:20; 12:19; 教義と聖約20:37; 59:8 ;詩篇34:18;イザヤ57:15 ; 66:2 参照)



神は謙遜な民を求めておられます。私たちはみずから進んでへりくだることもできれば,強制されてへりくだることもできます。アルマは言いました。「やむを得ずへりくだるのではなく,自らへりくだる人々は幸いである。」(アルマ32:16) 自分からへりくだる道を選びましょう。