「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -424ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マルコ1:22
人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。 


「キリストとその福音に畏敬の念を抱く」2022年4月、ウリセス・ソアレス、十二使徒定員会
わたしには,大学教授を定年退職した,多くの著作を持つ,聡明で,何より,強い決意を持ったイエス・キリストの弟子である,愛する友人がいます。彼は,会議や学術的な調査,またツアーの案内のために,何度も聖地を訪れたことがあります。彼によると,主が歩まれた地を訪れる度に,救い主や,主の地上における業,また主の愛する故郷について,必ず何か新しいことや,驚くべきこと,興味深いことを学び,驚嘆を覚えるそうです。わたしの友人が聖地で学んだすべてのことについて語るときに示す畏敬の念には,影響力があります。この驚嘆が,彼の人生における偉大な業績と学術研究の根底にあるのです。

彼の経験に耳を傾け,彼の熱意を感じたとき,わたしはイエス・キリストの福音に対して,どれほどの,いわゆる「霊の驚嘆」をわたしたちが感じられるのか,また感じるべきか,そしてそれが弟子としての生き方や永遠の命に向かう自分の旅にどれほどの影響をもたらすのか,思い巡らしました。わたしが言う驚嘆とは,心を込めて救い主とその教えを中心とした生活をする人や,へりくだって生活の中に主の存在を認めるすべての人が共通して感じる感情,畏敬の念,あるいは驚きの感覚のことです。聖霊の影響によって生じるそのような驚嘆の気持ちは,喜んでキリストの教義に従って生活しようとする熱意を刺激します。(『聖句ガイド』「キリストの教義」)

聖文には,この感覚がどのように現れるかについて幾つかの例があります。例えば,預言者イザヤは,主を喜ぶことによって主への深い感謝の気持ちを表しました。(イザヤ61:10) イエスがカペナウムの会堂で教えておられるのを聞いた人々は,主の教えと,教えるときの力に驚きました。(マルコ1:22) 少年ジョセフ・スミスは聖書のヤコブの手紙第1章を読んだとき,この同じ気持ちに心を貫かれ,神の知恵を求めることへと導かれました。(ジョセフ・スミス—歴史1:11-13)

兄弟姉妹の皆さん,イエス・キリストとその福音に真の畏敬の念を抱くとき,わたしたちはもっと幸せになり,神の御業にもっと熱意を持ち,そしてすべてのことの中に主の御手を認めます。さらに,神の御言葉の研究をもっと有意義なものとし,もっと意識して祈り,もっと敬虔に礼拝し,もっと熱心に神の王国で奉仕します。これらすべての行いが,生活の中でもっと頻繁に聖なる御霊の働きかけを受ける要因になります。(『聖句ガイド』「聖霊」) このようにして,救い主とその福音に対する証が強められ,わたしたちはキリストを自分のうちに生かし続け,(ガラテヤ2:20) 「〔主〕に根ざし,〔主〕にあって建てられ,そして……信仰が確立されて,あふれるばかり感謝」(コロサイ2:6-8) するのです。このように生活するとき,わたしたちの霊的レジリエンスが高められ,霊的無関心というわなに落ちないように守られます。




今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ3:15
しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。


「わたしの証」2000年4月、ゴードン・B・ヒンクレー、大管長
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」御父の御子であるその御方は地上に来られました。そして、王子として、御父の長子として君臨しておられた天上の住まいを離れて、自ら死すべき体をまとい、何よりも粗末なかいばおけの中に寝かされ、ローマの千卒長によって支配される隷属の状態に身を置くことに同意されたのでした。

主は、これ以上に御自身を低くされることがおできになったでしょうか。

イエスは「すべての正しいことを成就する」ためにヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられました(マタイ3:15)。イエスは地上での働きを始める前に、悪魔の狡猜な誘惑をお受けになりました。しかし、「サタンよ、引きさがれ」と言って、その誘惑を退けられました(マタイ16:23参照)

イエスはガリラヤ、サマリヤ、ユタヤを巡って、救いの福音を宣のべ伝え、盲人を見えるようにし、手や足が不自由だった人を癒いやし、死人に再び命を与えられました。その後に、子らに幸福をもたらす御父の計画を成就するため、わたしたち一人一人の罪の代価として自らの命をささげられたのでした。



イエスはわたしの友です。イエスはだれよりも多くのものを与えてくださいました。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13) イエスはわたしのために命を捨ててくださいました。永遠の命に至る道を開いてくださいました。これができるのは神をおいてほかにいません。わたしは、イエスの友としてふさわしいと思われる人物でありたいと願っています。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マルコ1:4
バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。

「行いを改善し、より良くなれます」2019年4月、ラッセル・M・ネルソン、大管長
悔い改めを罰と捉え,非常に深刻な状況でないかぎり避けるべきだと考える人があまりに多すぎます。しかし,この罰せられるという思いは,サタンから来るものです。サタンは,わたしたちがイエス・キリストに頼るのを妨げようとします。(教義と聖約6:36) しかし主は両腕を広げて立ち,(申命26:82ニーファイ1:15モルモン6:17教義と聖約6:20 参照) 喜んでわたしたちを癒し,赦し,汚れを取り,強め,清め,聖くしたいと望んでおられます。

ギリシャ語の新約聖書で悔い改めに当たる言葉は,「metanoeo(メタノエオ)」です。接頭語の「meta(メタ)」は「変わる」という意味です。接尾語の「noeo(ノエオ」は,「思い」「知識」「霊」そして「息」を意味するギリシャ語に関連しています。

ですからイエスは皆さんやわたしに「悔い改めよ」(ルカ13:3,5) とお求めになるとき,思いと知識と霊と,さらに息の仕方までも変えなさいと勧めておられるのです。愛し方,考え方,奉仕の仕方,時間の過ごし方,妻との接し方,子供の教え方,そして自分の体の管理の仕方さえも変えるように求めておられます。

日々欠かさず悔い改めに取り組むことほど,霊を自由にし,気高くするもの,言い換えればわたしたち個人の進歩に不可欠なものはありません。悔い改めは一つの出来事ではなく,一連の過程であって,幸福と心の平安を得る鍵です。信仰と相まって,悔い改めはイエス・キリストの贖いの力に手を伸ばせるようにしてくれます。(2ニーファイ9:23モーサヤ4:63ニーファイ 9:2227:19参照)