マルコ1:22
人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
「キリストとその福音に畏敬の念を抱く」2022年4月、ウリセス・ソアレス、十二使徒定員会
わたしには,大学教授を定年退職した,多くの著作を持つ,聡明で,何より,強い決意を持ったイエス・キリストの弟子である,愛する友人がいます。彼は,会議や学術的な調査,またツアーの案内のために,何度も聖地を訪れたことがあります。彼によると,主が歩まれた地を訪れる度に,救い主や,主の地上における業,また主の愛する故郷について,必ず何か新しいことや,驚くべきこと,興味深いことを学び,驚嘆を覚えるそうです。わたしの友人が聖地で学んだすべてのことについて語るときに示す畏敬の念には,影響力があります。この驚嘆が,彼の人生における偉大な業績と学術研究の根底にあるのです。
彼の経験に耳を傾け,彼の熱意を感じたとき,わたしはイエス・キリストの福音に対して,どれほどの,いわゆる「霊の驚嘆」をわたしたちが感じられるのか,また感じるべきか,そしてそれが弟子としての生き方や永遠の命に向かう自分の旅にどれほどの影響をもたらすのか,思い巡らしました。わたしが言う驚嘆とは,心を込めて救い主とその教えを中心とした生活をする人や,へりくだって生活の中に主の存在を認めるすべての人が共通して感じる感情,畏敬の念,あるいは驚きの感覚のことです。聖霊の影響によって生じるそのような驚嘆の気持ちは,喜んでキリストの教義に従って生活しようとする熱意を刺激します。(『聖句ガイド』「キリストの教義」)
聖文には,この感覚がどのように現れるかについて幾つかの例があります。例えば,預言者イザヤは,主を喜ぶことによって主への深い感謝の気持ちを表しました。(イザヤ61:10) イエスがカペナウムの会堂で教えておられるのを聞いた人々は,主の教えと,教えるときの力に驚きました。(マルコ1:22) 少年ジョセフ・スミスは聖書のヤコブの手紙第1章を読んだとき,この同じ気持ちに心を貫かれ,神の知恵を求めることへと導かれました。(ジョセフ・スミス—歴史1:11-13)
兄弟姉妹の皆さん,イエス・キリストとその福音に真の畏敬の念を抱くとき,わたしたちはもっと幸せになり,神の御業にもっと熱意を持ち,そしてすべてのことの中に主の御手を認めます。さらに,神の御言葉の研究をもっと有意義なものとし,もっと意識して祈り,もっと敬虔に礼拝し,もっと熱心に神の王国で奉仕します。これらすべての行いが,生活の中でもっと頻繁に聖なる御霊の働きかけを受ける要因になります。(『聖句ガイド』「聖霊」) このようにして,救い主とその福音に対する証が強められ,わたしたちはキリストを自分のうちに生かし続け,(ガラテヤ2:20) 「〔主〕に根ざし,〔主〕にあって建てられ,そして……信仰が確立されて,あふれるばかり感謝」(コロサイ2:6-8) するのです。このように生活するとき,わたしたちの霊的レジリエンスが高められ,霊的無関心というわなに落ちないように守られます。


