マタイ3:8
だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
「悔い改め」(英文)1991年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
罪を認めると,本当の悲しみが心を覆います。その悲しみは,「この世の悲しみ」でも「神の御前から断ち切られた者の悲しみ」でもなく,二度と「罪悪を犯して楽し〔む〕」ことのない「神のみこころに添うた悲しみ」です。(2コリント 7:10 ;モルモン2:13) それに対し,偽りの悲しみは,自分の弱点を哀れむようなものです。ただ形式的に後悔するだけでは,間違いを嘆くことはあってもそれを改めるところまではいきません。
心から悔い改めるには,みずから苦しみ,十分な時間をかけて罪を清め新たな出発をしなくてはなりません。単に悲しみの感情が収まるのを待つだけでは十分とは言えません。苦難と同様,心の痛みもときには私たちの益になることがあります。悔い改めが本当に行なわれるまでは,たびたび懲らしめが必要だというのももっともなことです。(教義と聖約 1:27;ヒラマン12:3 参照)
本当の悲しみはすぐに良いしるし,すなわち「悔改めにふさわしい実」(マタイ3:8。使徒26:20;アルマ5:54参照)を生じます。「時がたって」(モーセ7:21) その実はつぼみとなり,花が咲き,実をつけるのです。
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信仰によって歩む道のりのうちで,悔い改めほど困難な道はほかにありません。しかし,「悔改めを生じる信仰」(アルマ34:16)を持っていれば,道をふさぐ障害物を取りのけ,前進して神に慈悲を請うことができます。真心から悔い改めた人は,自分自身をすべて神に捧げます。神のみ前にひたすら身を投げ出し,人がどう思うかではなく,神がどう思われるかにのみ心を砕くのです。そして謙遜な気持ちでこう言うのです。「あなた御自身のことをわたしにお知らせください。わたしはあなたを知り、……自分の罪をすべて捨てます。」(アルマ22:18)すべての罪を捨てること,これ以外に神を知る道はないのです。
