「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -410ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ8:10
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」


「信仰は偶然ではなく,選びによって与えられる」2015年10月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会
救い主は周囲の人々の信仰の強さや弱さに気づいておられました。ある人には「あなたの信仰は見あげたものである」(マタイ15:28) とお認めになり,別の人には「ああ,信仰の薄い者たちよ」(マタイ6:30) と嘆かれました。「あなたがたの信仰は,どこにあるのか」(ルカ8:25) とお尋ねになったこともありますし,「〔全てのイスラエルの中にも〕これほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10) と賞賛されたこともありました。

わたしは自分にこう問いかけます。「救い主はわたしの信仰をどのように見ておられるだろうか。」今晩わたしは皆さんにお尋ねします。「救い主はあなたの信仰をどのように見ておられるでしょうか。」

主イエス・キリストを信じる信仰は,空中に漫然と漂う軽いものではありません。信仰は偶然に舞い降りて来るものでも,生得権として備わるものでもありません。それは,聖文にあるように,「まだ見ていない事実を確認すること」なのです。(へブル11:1)  信仰は霊的な光を放ち,光は見分けがつくものです。(アルマ32:35参照) イエス・キリストを信じる信仰は,天からの賜物であり,わたしたちが信じることを選び(L・ホイットニー・クレートン「信じることを選ぶ」2015年4月参照) ,それを求め,それにしっかりとつかまるときに与えられます。皆さんの信仰は強くなっているか,弱くなっているかのどちらかです。信仰は力の源であり,この世だけでなく,幕を越えて進歩するうえでも重要なものです。(Lectures on Faith (1985年),3参照) キリストの恵みにより,わたしたちはいつの日か主の御名を信じる信仰を通して救われるのです。(エペソ2:8 参照) 将来どれほどの信仰を抱くかは,偶然ではなく,選びによるのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ8:5-13
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、 「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。 イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。 なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、 この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。


「聖文の祝福」(英文) 2010年4月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
信仰は,神の御言葉を聞くときや読むときに,聖なる御霊から心に,すなわち御霊から霊に与えられるのです。そして,信仰は御言葉をよく味わい続けることで成熟していきます。

信仰にまつわる聖文の話は,わたしたち自身の信仰を強めるのに役立ちます。わたしたちは,キリストが直接来てもらわなくても僕を癒された百卒長の信仰や(マタイ8:5-13参照),主人の食卓から落るパンくずでも頂きますとたとえで語り,娘を癒してもらった謙遜な異邦人の母親のことを思い出すことができます(マタイ15:22-28マルコ7:25-30 参照)。苦悩するヨブが,「たとえ彼がわたしを殺そうとも,わたしはなお彼を信頼する」と叫ぶ声を聞くことができます(ヨブ13:15 参照)。また彼が,「わたしは知る,わたしをあがなう者は生きておられる,末の日に彼は必ず地の上に立たれる。……わたしは肉にあって神を見るであろう」と宣言する声を聞くことができます(ヨブ19:25-26 参照)。また,多くの大人から憎まれ,まだ少年だったにもかかわらずひどい迫害を受けた預言者の決意を聞き,勇気を得ることができます。「わたしは示現を見た。わたしはそれを知っていた。神がそれを御存じであるのを,わたしは知っていた。わたしはそれを否定できず,またそうする勇気もなかった。」(ジョセフ・スミス― 歴史1:25)

聖文には,御父と御子を証するという役割を持った聖なる御霊が伴っています。聖文がキリストの教義を説き明かすからです(3 ニーファイ11:32参照)。したがって,聖文を読むことは,聖霊を受ける一つの方法です。言うまでもなく,そもそも聖文は聖霊を通して与えられています(2ペテロ1:21;教義と聖約20:26-27;68:4参照)。それと同じ御霊は聖文が真実であることをわたしたちに証することがおできになるのです。注意深く,丹念に聖文を研究してください。聖文について深く考え,祈ってください。聖文は啓示であり,さらなる啓示を与えてくれることでしょう。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マルコ2:27
また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。


「安息日と聖餐」2011年4月、L・トム・ペリー、十二使徒定員会
メルビン・J・バラード長老は次のように勧告しました。「わたしたちはすべての末日聖徒にこの聖餐の席に着いてほしいと思っています。そこは自己を調査する場であり,自己を点検する場だからです。そこで進路を修正し,生活を正し,教会の教えや兄弟姉妹と調和していくことを学ぶのです。」

……

主は初期の時代の聖徒に対して「神聖なものを軽んじないようにしなさい」(教義と聖約6:12) と言われましたが,それは「安息日は人のためにあるもので,人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27) と弟子たちに言われたことをわたしたちに再確認しておられるように思います。

兄弟姉妹,わたしたちが救い主との約束をおろそかにし,新約聖書をはじめとする聖文の教えを無視し,主に従わなくなるとき,敵対する者はこの終わりの時に勝利を収めるのです。両親の皆さん,今こそ,聖餐会に出席することによって信者の模範になるよう子供たちに教えましょう。日曜の朝が来たら,子供たちが十分な睡眠を取っていて,ふさわしい服装ができるよう助けてください。聖餐の象徴を受け,人を啓発し,教化し,高揚する聖霊の力を受けるための霊的な準備ができているように助けてください。皆さんが安息日を一日中尊び,その霊的な祝福を1週間を通して経験することにより,家族に愛があふれるようにしてください。皆さんの息子娘が安息日を守ることにより「立って光を放ち」,「〔彼らの〕光がもろもろの国民のための旗となる」(教義と聖約115:5) ように促しましょう。