「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -409ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ8:20
イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。


「謝辞」1980年4月教会設立150周年郵便はがき発行記念行事、エズラ・タフト・ベンソン、十二使徒定員会

このソルトレーク神殿は, 約40年にわたる建築期間中に2世代の職人が働き, また約1トンから2.5トンもある巨大な石材は,神殿まで30キロの道のりを牛車で運ばれてきたものです。そして, このひとつの石の加工に1カ月も費やしたことがありました。当時の神殿の主任建築士トルーマン・エンジェルは, 生涯の仕事として神殿の設計と建築に打ち込んでいました。本当に心打たれる思いです。と同時に, この神殿は他の神殿と同じように単なる建築物として建てられたのではありません。主の宮居として献堂されたものなのです。このことが最も大切なことです。

救い主は, この地上で福音を宣べ伝えておられた時, 私たちをはっとさせるような言葉を述べられました。「きつねには穴があり, 空の鳥には巣がある。しかし, 人の子にはまくらする所がない。」(マタイ8:20) 多くの人々はこの聖句を読んで, イエスには自分の家も住居もなかったのだと思っています。しかし, 次のような解釈も考えられます。当時, 啓示によって与えられ, 主の宮居として奉献されたソロモンの神殿は破壊されていました。そして同じ場所に別の神殿が建てられていました。しかし, この神殿もひどく汚されていました。そこでイエスは, 神殿とその庭から両替人たちを追い出して次のように言われました。『わたしの家は, 祈の家ととなえられるべきである』と書いてある。それだのに, あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)  確かにその時, 人の子が枕を置いて寝る所がありませんでした。献堂され,嘉納された主の宮居がなかったからです。

1853年4月6日,ソルトレーク神殿のすみ石が据えられた時も, まだ献堂された主の宮居はありませんでした。ブリガム・ヤング大管長はその献堂式の話の中で次のように述べています。「今日,私たちはなぜここにいるのだろうか。… … いと高き神に捧げる神殿の基を据えるためである。そして,私たちの長兄, 神の御子が再びこの地上を訪れたもう時,枕を置いて寝る所があるように備えるのである。」(Discourses of Brigham Young「ブリガム・ヤング説教集」p.417)

ソルトレーク神殿だけでなく,教会のすべての神殿は末日聖徒にとって,神の御子の住む所,主の宮居を象徴しているのです。

きょう, 私たちは先祖の開拓者の先見の明とビジョンに心からの感謝と敬意を表したいと思います。と同時に, この聖なる神殿の儀式に携わる特権と祝福が与えられていることを神に感謝しています。またこの神殿の絵を描いて下さったアーノルド・ブリーバーグ氏と今回のソルトレーク神殿記念郵便はがきの発行に尽力して下さった郵政省の関係者の皆さんに心から感謝しています。願わくは, この歴史的な出来事が私たちの神聖な伝統を思い起こさせるものとなるよう, イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。アーメン。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ8:20
イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。


「人生の旅路に喜びを見いだす」2008年10月、トーマス・S・モンソン、大管長
主は祈り方を教え,仕え方を教え,生き方を教えてくださいました。主の生涯は愛の遺産です。病人を癒いやし,虐げられた人を引き上げ,罪人を救われました。

お独りになられる時が来ました。一部の弟子は主を疑いました。裏切る者もいました。ローマの兵士にわきを刺され,怒り狂った群衆に命を奪われても,ゴルゴタの丘には憐あわれみの言葉がこだましました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」(ルカ23:34)

それより前に,主は,恐らく地上での使命の極致を思い浮かべながら,こう嘆かれました。「きつねには穴があり,空の鳥には巣がある。しかし,人の子にはまくらする所がない。」(マタイ8:20) 「客間には……余地がなかった」(ルカ2:7参照) という言葉だけが主に向けられた唯一の拒絶の言葉ではなく,それは始まりにすぎませんでした。それでも主は皆さんとわたしに主を受け入れるよう招いておられます。「見よ,わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはいって彼と食を共にし,彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(黙示3:20)

悲哀を知っているこの悲しみの人,この栄光の王,この万軍の主はどなただったのでしょう。この御方こそ,わたしたちの主,救い主,神の御子,救いの源であられます。この御方は「わたしに従ってきなさい」(マルコ2:14) と招き,「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37) と教え,「わたしの戒めを守り……なさい」(教義と聖約11:6) と嘆願しておられます。

主について行き,主の模範に倣い,主の御言葉に従いましょう。そうしながら,感謝という神聖な贈り物を主にささげましょう。

兄弟姉妹の皆さん,人生の変化を受け入れ,何が最も大切かを悟り, 常に感謝を表し,そのようにして旅路に喜びを見いだせますように,心から祈ります。イエス・キリストの御名により,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ8:17
これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。


「イエス・キリストの贖罪により強められる」2015年10月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
イエスは教導の業を始められたとき,御自分は「打ちひしがれている者」を癒やすために遣わされたと言われました(ルカ4:18)。聖書は,主が「病気」の人々を癒やされる様子を何度も描写しています(ルカ5:157:21)。モルモン書は,主が「​どんな​こと​で​も​苦しんで​いる」人々を癒やされる様子を記録しています(3ニーファイ17:9)。マタイによる福音書には,主が彼らを癒やされたのは「預言者イザヤによって『彼は,わたしたちのわずらいを身に受け,わたしたちの病を負うた』と言われた言葉が成就するため」であると記されています(マタイ8:17)

イザヤは,メシヤは人の「病」と「悲しみ」を担われたと教えています(イザヤ53:4)。イザヤはまた主は人を強めてくださると教えました。「恐れてはならない,わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない,わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし,あなたを助け〔る。〕」(イザヤ41:10)

ですから,わたしたちはこう歌うのです。

恐るな,われは汝が神
常に汝と共にあり
助け与え,強くして
わが正しき力をもて 汝れを支え,励まさん(「主のみ言葉は」『賛美歌』46番)

使徒パウロは,自身の死すべき状態の試練について,「わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる」と記しました。(ピリピ4:13)

贖罪を成し遂げられたことにより,救い主は,死すべき状態のあらゆる苦痛や苦難を救う力―助ける力―をお持ちです。時に主の力は弱さを癒やしてくれます。しかし,主は弱さに耐える強さを授けることによって救い,助けてくださることがあるということも,聖文と経験から理解できます。