「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -408ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マルコ5:1-15
こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。 さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。 豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。 


「見る目」2020年10月、ミッシェル・D・クレーグ、中央若い女性会長会
神が自分をどう御覧になるかを理解することで,わたしたちも神と同じようにほかの人々を見る道が開けます。コラムニストのデビッド・ブルックスはこう語りました。「深刻な社会問題の多くは,自分はだれからも見られていない,知られていないと感じることから生じる。……だれもが伸ばすべき……根本的な特質〔がある〕。それは,お互いの奥深くを見ること,〔また,〕奥深くを見られることだ。」(David Brooks, “Finding the Road to Character” (Brigham Young University forum address, Oct. 22, 2019)

イエス・キリストは,人々の奥深くを御覧になっています。一人一人を見ておられるイエスは,その必要,また将来なり得る姿を目にしておられます。ほかの人々が,漁師や罪人,取税人と見なした人々を,イエスは弟子として御覧になりました。人々が悪魔に取りつかれていると見なした人々についても,イエスは表面的な苦痛に目を向けることなく,その人自身を認め,癒されたのです。(マルコ5:1-15参照)

慌ただしい生活にあっても,わたしたちはイエスの模範に倣い,一人一人を見ることができます。人々の必要や信仰,困難,また将来なり得る姿を目にすることができるのです。※1

自分が普段は見えていないものを見る目を開いてくださるよう主に祈るとき,わたしは度々二つのことを自問し,その後受ける印象に注意を払うようにしています。一つは「やめるべきことで今行っていることはなにか」,もう一つは「始めるべきことでまだ行っていないことは何か」という問いです。※2

数か月前のこと,これについて聖餐の間に自問したところ,驚いたことに次のような印象を受けました。「列に並んで待っているとき,携帯電話を見るのをやめなさい。」列に並ぶときには,ほとんど無意識に携帯電話を見るようになっていました。メールを確認したり,トップニュースを見たり,ソーシャルメディア上の投稿を見ていったりと,いろいろなことを済ませるのにうってつけの時間だったからです。

翌朝,店で長い列に並んで待っていたときのことです。携帯電話を取り出すと,前日に受けた印象を思い出しました。そこで携帯電話をしまい,周りを見渡すと,わたしの前に並ぶ年配の紳士が目に留まりました。買い物かごには,キャットフードの缶が幾つか入っているだけです。多少の気まずさを感じながらも,わたしは「ネコを飼っていらっしゃるんですね」と,精いっぱい気の利いたことを言いました。嵐が近づく中,ネコのえさを切らしてしまうと嫌だから,とのことでした。短く言葉を交わした後,彼はわたしの方を向いてこう言いました。「いやね,だれにも言っていないんだが,今日はわたしの誕生日なんだよ。」心が溶けていくようでした。お祝いの言葉を伝えると,心の中で祈りました。携帯電話にかまけて,だれかをほんとうに見る機会,つながりを求めていた人と交流する機会を逃さずにいられたことを感謝したのです。

エリコへの道で,〔傷ついた旅人を〕見ながら通り過ぎた祭司やレビ人のようにはなりたくないと,心から思っています。(ルカ 10:30-32参照) それでも,見過ごしてしまうことが多すぎるとも感じています。


※1「周りにいる人は皆,神や女神になる可能性を持っている。この事実を軽々しく扱ってはならない。すぐ近くにいる,だれよりも物分かりが悪くつまらない人が,いつの日か,あなたが心から崇拝したくなるような存在となるかもしれないということを忘れてはいけない。今のあなたには,その姿が見えていないだけなのだ。……この世に 凡人などいない。」 (C. S. Lewis, The Weight of Glory [2001], 45–46)

※2 キム・B・クラーク「火に包まれ」(宗教教育セミナリー・インスティテュート衛星放送,2015年8月4日)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ9:36
また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。 


「救い主の不変の思いやり」2021年10月、ウリセス・ソアレス、十二使徒定員会
イエスの思いやりに満ちた,個人に合わせたミニスタリングは,わたしたちが隣人に接する際の完全な手本を示しています。聖典には,救い主が深い不変の思いやりに動かされて当時の人々に接し,苦しんでいる人々や「飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れている」(マタイ9:36) 人々をどのように助けられたかの,数え切れないほどの実例があります。救い主は,肉体的にも霊的にも重荷から解放する必要のある人々に,憐れみの手を差し伸べられました。(マタイ20:34マルコ1:41ルカ7:133ニーファイ17:6参照)

……

イエスの思いやりのある行動は,行うべき務めのリストに基づき,時折あるいは義務的に行われたものではなく,日々,神と神の子供たちに対する主の純粋な愛と,彼らを助けたいという主の不変の願いを現実に示すものであると気づくことが重要です。

……

愛する友人の皆さん,救い主の模範に倣って,自分の生き方に思いやりを取り入れるよう意識的に努めるときに,人々の必要にさらに敏感に気づくことができます。その感受性が増すことで,心からの関心と愛の気持ちが,自分のあらゆる行動に浸透します。主はわたしたちの努力を認めてくださり,わたしたちが主の御手に使われる者となり,人の心を和らげ,手が「垂れている」(教義と聖約81:5人に安らぎをもたらす機会を必ず与えてくださいます。

……

愛する友人の皆さんに証します。救い主の思いやりの模範を生活に取り入れようと努めるときに,隣人の徳をたたえる能力は増し,人の不完全さを裁く生まれながらの本能は低下します。わたしたちと神との交わりは深まります。間違いなく,人生はもっと思いやりに満ちたものとなり,柔和な気持ちが増し加えられ,終わりのない幸福の源を見いだすでしょう。わたしたちは平和をつくり出す人として知られるようになり,春の朝露のように穏やかな言葉で話します。

わたしたちが周りの人々に対してもっと寛容で,理解を示す人になれますように,また,完全な優しさの中で,主の憐れみが人の不完全さに対するわたしたちのいら立ちを和らげるように祈ります。これはわたしたちへの救い主の招きです。わたしは証します。主は生きておられ,寛大で忍耐強い弟子の完全な模範となる御方です。わたしはこれらの真理について証します。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ7:11-15
そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。 町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。 主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。 すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。



「人生のチャレンジに立ち向かう」(英文)1993年10月、トーマス・S・モンソン、大管長会
救い主の導きと教えの業の中で, ナインのやもめへの主の思いやりの模範ほど私に感動を与えるものはありません。

「そののち… … ナインという町へおいでになったが, 弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。


町の門に近づかれると, ちょうど,あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので, 葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが,その母につきそっていた。


主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ, 『泣かないでいなさい』と言われた。


そして近寄って棺に手をかけられると, かついでいる者たちが立ち止まったので, 『若者よ, さあ, 起きない』と言われた。

すると, 死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。」(ルカ7:11-15)

主はなんという力, なんというやさしさ, なんという思いやりを示されたことでしょう。私たちも, 主の模範に従えば, 人々に祝福を与えることができるのです。機会はどこにでもあります。必要なのは悲しみを見る目と, 物言わぬ失意の声を聞く耳です。そうです。思いやりの心を持つことにより,私たちは目と目, 口と耳をもってのみならず, 救い主に倣い, 心と心でさえ意志を伝えられるのです。

主のみ言葉は私たちの指針です。「あなたがたは, この世ではなやみがある。しかし, 勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

主は生きておられます。私たち一人一人を支えてくださいます。戒めを守りましょう。主に従い, 主を伴侶とすることにより, 人生のチャレンジに雄々しく立ち向かうことができますよう, へりくだりイエス・キリストの聖なるみ名により, お祈りいたします。アーメン。