マルコ5:1-15
こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。 さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。 豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。
「見る目」2020年10月、ミッシェル・D・クレーグ、中央若い女性会長会
神が自分をどう御覧になるかを理解することで,わたしたちも神と同じようにほかの人々を見る道が開けます。コラムニストのデビッド・ブルックスはこう語りました。「深刻な社会問題の多くは,自分はだれからも見られていない,知られていないと感じることから生じる。……だれもが伸ばすべき……根本的な特質〔がある〕。それは,お互いの奥深くを見ること,〔また,〕奥深くを見られることだ。」(David Brooks, “Finding the Road to Character” (Brigham Young University forum address, Oct. 22, 2019)
イエス・キリストは,人々の奥深くを御覧になっています。一人一人を見ておられるイエスは,その必要,また将来なり得る姿を目にしておられます。ほかの人々が,漁師や罪人,取税人と見なした人々を,イエスは弟子として御覧になりました。人々が悪魔に取りつかれていると見なした人々についても,イエスは表面的な苦痛に目を向けることなく,その人自身を認め,癒されたのです。(マルコ5:1-15参照)
慌ただしい生活にあっても,わたしたちはイエスの模範に倣い,一人一人を見ることができます。人々の必要や信仰,困難,また将来なり得る姿を目にすることができるのです。※1
自分が普段は見えていないものを見る目を開いてくださるよう主に祈るとき,わたしは度々二つのことを自問し,その後受ける印象に注意を払うようにしています。一つは「やめるべきことで今行っていることはなにか」,もう一つは「始めるべきことでまだ行っていないことは何か」という問いです。※2
数か月前のこと,これについて聖餐の間に自問したところ,驚いたことに次のような印象を受けました。「列に並んで待っているとき,携帯電話を見るのをやめなさい。」列に並ぶときには,ほとんど無意識に携帯電話を見るようになっていました。メールを確認したり,トップニュースを見たり,ソーシャルメディア上の投稿を見ていったりと,いろいろなことを済ませるのにうってつけの時間だったからです。
翌朝,店で長い列に並んで待っていたときのことです。携帯電話を取り出すと,前日に受けた印象を思い出しました。そこで携帯電話をしまい,周りを見渡すと,わたしの前に並ぶ年配の紳士が目に留まりました。買い物かごには,キャットフードの缶が幾つか入っているだけです。多少の気まずさを感じながらも,わたしは「ネコを飼っていらっしゃるんですね」と,精いっぱい気の利いたことを言いました。嵐が近づく中,ネコのえさを切らしてしまうと嫌だから,とのことでした。短く言葉を交わした後,彼はわたしの方を向いてこう言いました。「いやね,だれにも言っていないんだが,今日はわたしの誕生日なんだよ。」心が溶けていくようでした。お祝いの言葉を伝えると,心の中で祈りました。携帯電話にかまけて,だれかをほんとうに見る機会,つながりを求めていた人と交流する機会を逃さずにいられたことを感謝したのです。
エリコへの道で,〔傷ついた旅人を〕見ながら通り過ぎた祭司やレビ人のようにはなりたくないと,心から思っています。(ルカ 10:30-32参照) それでも,見過ごしてしまうことが多すぎるとも感じています。
※1「周りにいる人は皆,神や女神になる可能性を持っている。この事実を軽々しく扱ってはならない。すぐ近くにいる,だれよりも物分かりが悪くつまらない人が,いつの日か,あなたが心から崇拝したくなるような存在となるかもしれないということを忘れてはいけない。今のあなたには,その姿が見えていないだけなのだ。……この世に 凡人などいない。」 (C. S. Lewis, The Weight of Glory [2001], 45–46)
※2 キム・B・クラーク「火に包まれ」(宗教教育セミナリー・インスティテュート衛星放送,2015年8月4日)
