マタイ8:5-13
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、 「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。 イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。 なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、 この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
「聖文の祝福」(英文) 2010年4月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
信仰は,神の御言葉を聞くときや読むときに,聖なる御霊から心に,すなわち御霊から霊に与えられるのです。そして,信仰は御言葉をよく味わい続けることで成熟していきます。
信仰にまつわる聖文の話は,わたしたち自身の信仰を強めるのに役立ちます。わたしたちは,キリストが直接来てもらわなくても僕を癒された百卒長の信仰や(マタイ8:5-13参照),主人の食卓から落るパンくずでも頂きますとたとえで語り,娘を癒してもらった謙遜な異邦人の母親のことを思い出すことができます(マタイ15:22-28; マルコ7:25-30 参照)。苦悩するヨブが,「たとえ彼がわたしを殺そうとも,わたしはなお彼を信頼する」と叫ぶ声を聞くことができます(ヨブ13:15 参照)。また彼が,「わたしは知る,わたしをあがなう者は生きておられる,末の日に彼は必ず地の上に立たれる。……わたしは肉にあって神を見るであろう」と宣言する声を聞くことができます(ヨブ19:25-26 参照)。また,多くの大人から憎まれ,まだ少年だったにもかかわらずひどい迫害を受けた預言者の決意を聞き,勇気を得ることができます。「わたしは示現を見た。わたしはそれを知っていた。神がそれを御存じであるのを,わたしは知っていた。わたしはそれを否定できず,またそうする勇気もなかった。」(ジョセフ・スミス― 歴史1:25)
聖文には,御父と御子を証するという役割を持った聖なる御霊が伴っています。聖文がキリストの教義を説き明かすからです(3 ニーファイ11:32参照)。したがって,聖文を読むことは,聖霊を受ける一つの方法です。言うまでもなく,そもそも聖文は聖霊を通して与えられています(2ペテロ1:21;教義と聖約20:26-27;68:4参照)。それと同じ御霊は聖文が真実であることをわたしたちに証することがおできになるのです。注意深く,丹念に聖文を研究してください。聖文について深く考え,祈ってください。聖文は啓示であり,さらなる啓示を与えてくれることでしょう。
