「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -402ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ13:16
しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。


「絶えず祈りに心を配る」2019年10月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
トピにとって,一瞬の気の緩みや不注意が,チーターからの攻撃を即座に受けるような事態を招きかねません。同様に,霊的な慢心や無頓着さが,わたしたちをサタンの誘惑に屈しやすくします。霊的な軽率さが,生活に大きな危険を招いてしまうのです。

ニーファイは,末日にサタンがどのようにして神の子供たちをなだめ,この世は安全だと錯覚させようとするかについて,次のように述べています。「彼らは,『シオンの中では,すべてが良い。まことに,シオンは栄えており,すべてが良い』と言う。悪魔はこのようにして人々をだまし,巧みに地獄に誘い落とすのである。」(2ニーファイ28:21)

こうした慢心や無頓着さに逆らうには,絶え間なく警戒することが必要です。警戒するとは,起こりうる危険や困難に対して油断なく目を光らせる状態または行為を言い,目を光らせるとは,見張ったり,守ったりするために,常に目を覚ましているという行為を指します。霊的に言えば,常に目を覚まし,聖霊の促しと,塔にいる主の見張り人から発せられる合図に注意を払う必要があるのです。(エゼキエル33:7教義と聖約101:44-58『聖句ガイド』「見守る,見守る者」の項)

「また……悪魔の誘惑に惑わされることなく,悪魔に打ち負かされること……のないように,絶えず祈りに心を配ることを,あなたがたに勧める。見よ,悪魔はあなたがたに決して良いものを報いとして与えないからである。」(アルマ34:39)

わたしたちの生活を救い主と主の福音に焦点を合わせ,集中することで,霊的に眠った,怠惰な者という,生まれながらの人が持つ傾向を克服できます。わたしたちが見る目と聞く耳を持つようになると,(マタイ13:16参照) 普段であれば見聞きする必要があると思わないことや,見聞きできると思えないようなことを見聞きできるよう,聖霊がわたしたちの能力を高めてくださるのです。

「それゆえ,目を覚ましていて,用意ができているようにしなさい。」(教義と聖約50:46)

 

 

 


 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ13:8
ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。


「種まきのたとえ」2015年4月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
種まきのたとえは,救い主が「良い地に落ちて実を結び」何倍にも増えたという説き明かしをされたところで終わっていますマタイ13:8。そのような良い地になり,そのように豊かな収穫を得るために,どうしたら備えることができるでしょうか。

イエスは,「良い地に落ちたのは,御言を聞いたのち,これを正しい良い心でしっかりと守り,耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」と説き明かされましたルカ8:15。わたしたちには福音の言葉という種があります。優先順位を定めてわたしたちの土を良い土とし,収穫を豊かにするために必要なことを行うかどうかは,一人一人に懸かっています。わたしたちはしっかりと根を下ろし,イエス・キリストの福音に改心することを求めなければなりませんコロサイ2:6‐7参照)。祈ること,聖文を読むこと,奉仕すること,そして,いつも主の御霊がともにいてくださるよう聖餐を定期的に受けることによって改心を遂げることができます。わたしたちはまた,心の大きな変化を求める必要がありますアルマ5:12‐14参照)。心に大きな変化が生じることによって,邪悪な望みや利己的な関心が,神を愛する心や神とその子供たちに仕えたいと願う心に置き換えられるからです。

わたしは以上のことが真実であることを証します。また救い主イエス・キリストの教えが道を指し示すこと,主の贖罪によってあらゆることが可能になったことを証します。イエス・キリストの御名により,アーメン
 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ13:3-23
イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞くがよい」。… 「…だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。 


「人は白分のまいたものを,刈り取る」(英文)1980年10月、L・トム・ペリー、十二使徒定員会
「地は満ちており、十分にあり余っているからである。まことに、わたしはすべてのものを備え、人の子らが自ら選択し行動する者となるようにした。」(教義と聖約 104:17)

主がこの地上に住む御自身の子供たちの必要を満たすために定められた秩序を見て,私は例年のことながら驚異の念に打たれます。私は毎年春になると, くわを手にし,種まきを始めますが, 真っ直ぐな筋に沿ってまけるように,2本のくいの間に張った糸を目当てにしながら, 地味の肥えた土地に2,3粒ずつ種をまいていきます。そして秋にはその豊かな実りに圧倒されるのです。他よりも抜きん出て丈が伸びる種もあります。そしてほとんどの種が, 何カ月か前にまかれた時とは比較にならないほど多くの黄金の豊かな実りをもたらしてくれるのです。人々は収穫の季節の度に, 主が注いで下さる祝福に感謝の念で胸が一杯になるに違いありません。

救い主は地上で教えと導きの業に携わっておられた間, たとえ話の中で何度もこの成長の過程を例にとって教えられました。このことから考えて, 救い主がこの過程をよく理解しておられたことは間違いありません。救い主は幾度となく, 主が人々のために定められたこの供給制度から例をあげて教えを説かれました。種をまく人(マタイ13:3-23参照), 自然に育っていく種(マルコ4:26-29参照), 毒麦(マタイ13:24-30参照), 実を結ばないいちじくの木(ルカ3:6-9参照), いちじくの葉(マタイ24:32-33), 畑に隠された宝(マタイ13:44)などのたとえ話をはじめ,ほかにもたくさんの例があります。次の聖句のように, 救い主の弟子たちが, 地上におられた時の主の言葉ぶりにならって人々に教えたとしても, 何ら不思議なことではありません。「まちがってはいけない, 神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを, 刈り取ることになる。」(ガラテヤ6:7)

主の刈り入れの律法が伝える偉大なメッセージは, 人々に強い印象を与えずにはおきません。主が定められた秩序は成長, 増殖, そして豊かな報いをもたらしてくれます。私たちは, この成長の過程を通じてもたらされる祝福を目のあたりにした時, 神の子供たちにこの現世の人間に与えられている可能性に気付いて欲しいと願うのではないでしょうか。主は御自分の子供たちの多くに, 地上にいる間に特別な被造物, つまり御自身の息子, 娘たちの世話をする機会を与えられました。主が人類に与えられたあらゆる責任の中でこれより偉大なものはありません。