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「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ22:42
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。



「どんな状況にあっても感謝する」2014年4月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
自分の置かれた状況 にあって感謝するとは,神への信仰を行いに表すことです。それには神を信頼し,まだ見ていない真実のことを待ち望むことが求められます。アルマ32:21参照) 感謝することによって,わたしたちは愛する救い主の模範に倣います。主は「わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」ルカ22:42と言われました。

真の感謝は,希望と証の表れです。そのような感謝は,人生の試練の意味は常に分かるわけではないことを認め,いつの日か分かるだろうと信じることからもたらされます。

どのような状況にあっても,わたしたちが 知っている数多くの神聖な真理によって感謝の念が養われていきます。例えば次のような真理です。「御父はその子供たちに偉大な幸福の計画を与えてくださった。」「御子イエス・キリストの贖罪によって愛する人たちと永遠にともに住める。」「最後には病気や障がいの重荷から解かれて栄光に満ちた完全な不死不滅の体を得られる。」「悲しみと喪失感がもたらす涙は消え,あふれるばかりの幸福と喜びが,『おし入れ,ゆすり入れ,あふれ出るまでに量をよくして』与えられる。」ルカ6:38

恐れと疑いを抱いていた救い主の使徒たちを,恐れを知らない喜びに満ちた主の使者に変えたのは,このような証であったに違いありません。主が十字架上で亡くなられてからしばらくの時間,彼らは絶望と悲しみに打ちのめされ,何が起こったのか理解できずにいました。しかし一つの出来事がその全てを変えました。主が彼らに御姿を現し,次のように言われたのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。」ルカ24:39

その御方が復活されたキリストであると分かったとき,愛する救い主が栄えある復活を遂げられたことを経験によって知ったとき,使徒たちは別人になりました。どんなことも彼らがその使命を果たすのを妨げることはできませんでした。その証のゆえに,彼らは拷問や屈辱,そして死さえも,勇気と決意をもって受け入れました。ローマ5:32コリント4:1712:10参照)彼らが主をほめたたえ,主に仕えることを妨げるものは何もありませんでした。彼らは至る所で人々の人生を変え,世界を変えました。

皆さんはこのような変化を経験するために,使徒たちのように救い主にまみえる必要はありません。聖霊から得られるキリストの証があるので,皆さんは悲しみをもたらす現世の終わりに目を留めず,世の贖い主が用意してくださった輝かしい未来を見ることができるのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ22:40-42
いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。



「柔和で心のへりくだった者」2018年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
柔和であることの最も崇高で意義深い模範は,救い主御自身の生涯に見いだすことができます。

大いなる贖い主は,「万物の下に身を落とし」教義と聖約88:6,「すべての不義からわたしたちをきよめ〔る〕」ために苦しみ,血を流し,亡くなられた御方であり,1ヨハネ1:9御自分の弟子たちのほこりまみれの足を優しくお洗いになりました。ヨハネ13:4-5そのような柔和さは,僕,また指導者としての主の顕著な特徴です。

ゲツセマネで激しい苦しみを受けたとき,イエスは義にかなった態度で応じ,進んで従うことの究極の模範を示しておられます。

「〔イエスは〕いつもの場所に着いてから,〔弟子たち〕に言われた,『誘惑に陥らないように祈りなさい。』

そしてご自分は,……ひざまずいて,祈って言われた,

『父よ,みこころならば,どうぞ,この杯をわたしから取りのけてください。しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください。』」ルカ22:40-42

この永遠に不可欠であって極度の苦痛を伴う経験の中で救い主が示された柔和さは,自分自身の知恵よりも神の知恵を優先することの大切さをわたしたち一人一人に示しています。

主がいつでも進んで従い,御自身をしっかりと制しておられたことは,わたしたち皆に畏敬の念をもたらし,教訓を与えてくれます。神殿の衛兵とローマ兵の一団がゲツセマネに来て,イエスを捕えて拘束しようとしたとき,ペテロは剣を抜いて大祭司の僕の右の耳を切り落としました。ヨハネ18:10そのとき救い主は,その僕の耳に手を触れてお癒しになりました。ルカ22:51救い主が手を伸ばして,御自分を捕えるかもしれない人を,御自分が捕えられて十字架につけられるのを防ぐために用いることもできた同じ天の力を用いて祝福されたということに注目してください。

また,主がピラトの前で訴えられ,十字架の刑を宣告されたときのことについて考えてください。マタイ27:2,11-26イエスは裏切りの場面で,「それとも,わたしが父に願って,天の使たちを十二軍団以上も,今つかわしていただくことができないと,あなたは思うのか」と言っておられました。マタイ26:53それにもかかわらず,「生者と死者双方の永遠の裁き主」モロナイ10:34は,逆に一時的に政治を行う者として任命された人の前で裁きをお受けになったのです。「しかし,総督が非常に不思議に思ったほどに,イエスは何を言われても,ひと言もお答えにならなかった。」マタイ27:14救い主の柔和さは,主が自制心をもって応じ,確固として抑制を働かせ,御自分の持つ無限の力を自らの利益のために用いようとなさらなかったことにはっきりと表れています。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ22:33
シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。 


「証という霊のかがり火」(英文)1992年10月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会
しばらく自分がペテロになったと想像してみてください。3年前に見知らぬ聖者がやって来て,その方から,あなたが自分と家族を養うための手段としていた舟と網とを捨てて,ご自分に従ってくるように,と言われました。あなたはためらうことなくその言葉に従いました。そして,あなたは3年にわたって,その方に従い,愛し,支え,仕えてきました。あなたは,その方が知者を辱め,弱き者悩める者に慰めを与え,病にある者を癒し,死者をよみがえらせるのを,その目で見てきました。また,その方が悪霊を追い出し,荒れる海を静めるのを見てきました。そして,あなたはほんのわずかの時間ですが,その方に向かって海の上を歩くことさえできました。モーセとエリヤがその方の所に現われた時にも,その方のそばにいました。そして,あなたの目の前でその方が姿を変えられた時,その光景も目撃しました。あなたは,全生涯をその方のために捧げようと決心しています。その方が,「あなたが立ち直ったとき」には,すなわちあなたが改宗したときには,あなたの兄弟たちを力づけてやりなさい, と言っておられるのです。ルカ22:31-32

ペテロは驚きました。ペテロは主に向かい,「主よ,わたしは獄にでも,また死に至るまでも,あなたとご一緒に行く覚悟です」ルカ22: 33) と言いました。しかし,イエスはよくご存じでした。主は決してペテロの決意の弱さをお責めにはなりません。ペテロは,主が逮捕された時,自分の決意がどれほど固いものか,それを行動で示しさえしました。しかし, ここで救い主がペテロに向かって説かれたのは,ペテロの証がもっと確固としたものなら,どういうことをしなければならないのか, ということだったのです。

主はペテロのことをよくご存じだったように,私たちのこともよく理解しておられます。私たちの証は,自分が考え,望んでいるほど赤々とは燃えていないときもあるかもしれません。おそらく,その証の基盤そのものが賢明でない場合もあるでしょう。たとえば,個人的な啓示による確固とした岩の上にではなく,教会の社交プログラムや人との関係の上に証の築かれている場合がそうです。あるいはまた,長年にわたって証を活用しなかったり,自分霊的な状況に自己満足していたために、次第に証の光が弱まってきているのかもしれません。

証が弱まっている理由が何であれ,救い主は主のもとに来て,主によって力を得よと愛をもって呼びかけておられます。救い主はモロナイにこう言われました。「もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために、人に弱さを与える。……もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。(エテル12:27)