ルカ22:40-42
いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
「柔和で心のへりくだった者」2018年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
柔和であることの最も崇高で意義深い模範は,救い主御自身の生涯に見いだすことができます。
大いなる贖い主は,「万物の下に身を落とし」(教義と聖約88:6),「すべての不義からわたしたちをきよめ〔る〕」ために苦しみ,血を流し,亡くなられた御方であり,(1ヨハネ1:9)御自分の弟子たちのほこりまみれの足を優しくお洗いになりました。(ヨハネ13:4-5)そのような柔和さは,僕,また指導者としての主の顕著な特徴です。
ゲツセマネで激しい苦しみを受けたとき,イエスは義にかなった態度で応じ,進んで従うことの究極の模範を示しておられます。
「〔イエスは〕いつもの場所に着いてから,〔弟子たち〕に言われた,『誘惑に陥らないように祈りなさい。』
そしてご自分は,……ひざまずいて,祈って言われた,
『父よ,みこころならば,どうぞ,この杯をわたしから取りのけてください。しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください。』」(ルカ22:40-42)
この永遠に不可欠であって極度の苦痛を伴う経験の中で救い主が示された柔和さは,自分自身の知恵よりも神の知恵を優先することの大切さをわたしたち一人一人に示しています。
主がいつでも進んで従い,御自身をしっかりと制しておられたことは,わたしたち皆に畏敬の念をもたらし,教訓を与えてくれます。神殿の衛兵とローマ兵の一団がゲツセマネに来て,イエスを捕えて拘束しようとしたとき,ペテロは剣を抜いて大祭司の僕の右の耳を切り落としました。(ヨハネ18:10)そのとき救い主は,その僕の耳に手を触れてお癒しになりました。(ルカ22:51)救い主が手を伸ばして,御自分を捕えるかもしれない人を,御自分が捕えられて十字架につけられるのを防ぐために用いることもできた同じ天の力を用いて祝福されたということに注目してください。
また,主がピラトの前で訴えられ,十字架の刑を宣告されたときのことについて考えてください。(マタイ27:2,11-26)イエスは裏切りの場面で,「それとも,わたしが父に願って,天の使たちを十二軍団以上も,今つかわしていただくことができないと,あなたは思うのか」と言っておられました。(マタイ26:53)それにもかかわらず,「生者と死者双方の永遠の裁き主」(モロナイ10:34)は,逆に一時的に政治を行う者として任命された人の前で裁きをお受けになったのです。「しかし,総督が非常に不思議に思ったほどに,イエスは何を言われても,ひと言もお答えにならなかった。」(マタイ27:14)救い主の柔和さは,主が自制心をもって応じ,確固として抑制を働かせ,御自分の持つ無限の力を自らの利益のために用いようとなさらなかったことにはっきりと表れています。
