ルカ22:33
シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
「証という霊のかがり火」(英文)1992年10月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会
しばらく自分がペテロになったと想像してみてください。3年前に見知らぬ聖者がやって来て,その方から,あなたが自分と家族を養うための手段としていた舟と網とを捨てて,ご自分に従ってくるように,と言われました。あなたはためらうことなくその言葉に従いました。そして,あなたは3年にわたって,その方に従い,愛し,支え,仕えてきました。あなたは,その方が知者を辱め,弱き者悩める者に慰めを与え,病にある者を癒し,死者をよみがえらせるのを,その目で見てきました。また,その方が悪霊を追い出し,荒れる海を静めるのを見てきました。そして,あなたはほんのわずかの時間ですが,その方に向かって海の上を歩くことさえできました。モーセとエリヤがその方の所に現われた時にも,その方のそばにいました。そして,あなたの目の前でその方が姿を変えられた時,その光景も目撃しました。あなたは,全生涯をその方のために捧げようと決心しています。その方が,「あなたが立ち直ったとき」には,すなわちあなたが改宗したときには,あなたの兄弟たちを力づけてやりなさい, と言っておられるのです。(ルカ22:31-32)
ペテロは驚きました。ペテロは主に向かい,「主よ,わたしは獄にでも,また死に至るまでも,あなたとご一緒に行く覚悟です」(ルカ22: 33) と言いました。しかし,イエスはよくご存じでした。主は決してペテロの決意の弱さをお責めにはなりません。ペテロは,主が逮捕された時,自分の決意がどれほど固いものか,それを行動で示しさえしました。しかし, ここで救い主がペテロに向かって説かれたのは,ペテロの証がもっと確固としたものなら,どういうことをしなければならないのか, ということだったのです。
主はペテロのことをよくご存じだったように,私たちのこともよく理解しておられます。私たちの証は,自分が考え,望んでいるほど赤々とは燃えていないときもあるかもしれません。おそらく,その証の基盤そのものが賢明でない場合もあるでしょう。たとえば,個人的な啓示による確固とした岩の上にではなく,教会の社交プログラムや人との関係の上に証の築かれている場合がそうです。あるいはまた,長年にわたって証を活用しなかったり,自分霊的な状況に自己満足していたために、次第に証の光が弱まってきているのかもしれません。
証が弱まっている理由が何であれ,救い主は主のもとに来て,主によって力を得よと愛をもって呼びかけておられます。救い主はモロナイにこう言われました。「もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために、人に弱さを与える。……もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。(エテル12:27)
