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「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

士師13:5

あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その頭にかみそりをあててはなりません。その子は生れた時から神にささげられたナジルびとです。彼はペリシテびとの手からイスラエルを救い始めるでしょう」。

 

「立って光を放ちなさい」(英文)2012年4月、アン・M・ディブ、中央若い女性会長会

天の御父はわたしたちがこの世に心を向け,絶えず変化する風潮に「従う」ことを望んでおられません。御父に心を向け,御父の常に変わらぬ導きに従うよう望んでおられます。福音に従って生活し,標準を高く掲げてほかの人々を「導く」ように望んでおられるのです。

 

聖文にはこの概念を分かりやすく説明する多くのすばらしい実例が載っています。旧約聖書の士師記では,サムソンについて学ぶことができます。サムソンは非常に大きな潜在能力を持って生まれました。母親はこのような約束を受けました。「彼はペリシテびとの手からイスラエルを救い始めるでしょう。」(士師13:5)

 

しかし,サムソンは成長すると,神の導きよりもこの世の誘惑に従うようになりました。それらの選択が正しいからという理由からではなく,むしろ「〔自分の〕心にかな〔う〕」(士師14:3)からという理由で選択をしました。

 

サムソンの旅や行動,選択について語るとき,聖文には繰り返し,「下って行って」(士師14:7)という言葉が使われています。サムソンは大きな潜在能力を発揮するために立って光を放つのではなく,この世の力に屈し,神から与えられた力を失い,若くして悲惨な死を遂げたのです。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2026年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

士師12:5-6

そしてギレアデびとはエフライムに渡るヨルダンの渡し場を押えたので、エフライムの落人が「渡らせてください」と言うとき、ギレアデの人々は「あなたはエフライムびとですか」と問い、その人がもし「そうではありません」と言うならば、

またその人に「では『シボレテ』と言ってごらんなさい」と言い、その人がそれを正しく発音することができないで「セボレテ」と言うときは、その人を捕えて、ヨルダンの渡し場で殺した。その時エフライムびとの倒れたものは四万二千人であった。

 

「友か敵か」(英文)1983年10月、チャールズ・A・デイデイエ、七十人第一定員会

軍の支配者たちは、敵と味方をいち早く区別するために合い言葉を考え、ほかにもいろいろな方法を編み出してきました。聖典にも、このような敵味方の識別に関する物語がいくつかあります。

 

士師記を開いてみましょう。戦いの終わりにあたり、エフライム人の軍はヨルダンの領域を通り抜けようとしていました。不幸にも、逃げ道は彼らの敵ギレアデ人がすでに占領していました。ギレアデ人は、彼らが敵か味方かを確かめなければなりませんでした。そこでエフライムの落人に、「あなたはエフライムびとですか」と問い、その人がもし「そうではありません」と言うならば、「では『シボレテ』と言ってごらんなさい」と言いました。それはエフライム人が「シボレテ」と正しく発音できなかったからです(士師12:5-6)。

 

その発音の違いは死を招き、4万2千人もの人がその日殺されました。確かにこの区別のしかたは成功し、誤解の余地を残しませんでした。

 

敵か味方か、その答えはふたつにひとつです。もちろん命が惜しければ味方のように振る舞うこともできますが、結果は同じです。この敵味方の区別と、神の器となり得る人を見つける選択過程とには類似点があります。

 

人類の歴史が示しているように、人間の犯した大きな過ちのひとつは、自分勝手に対立を作り出しておきながら、人種や文化、政治的な相違だと言って、宗教戦争を起こし、人類への挑戦をキリストの名のもとに正当化しようとしてきたことです。

 

今日、この複雑な世の中にあり、このような戦いと最後の大破壊を避けるため、キリスト御自身が与えられたメッセージをよく思い起こす必要があるでしょう。

 

「敵を愛し、のろう者を祝福し、憎む者に善をなし、汝らをないがしろにして責め苦しむる者のために祈れ。」(3ニーファイ12:44)

 

そして個人の根本的な問題として、自分は神の友であるのか敵であるのかを考えてみる必要があります。これは永遠にかかわることです。このことを正しく理解していれば、神との関係が永遠の生命をもたらすことでしょう。しかし、誤った解釈をしたり、その関係が間違って使われたり表されたりした場合、それは霊的また肉体的な死をもたらします。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2026年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

士師11:4

日がたって後、アンモンの人々はイスラエルと戦うことになり、

 

「もし汝よくこれを耐え忍ばば」(英文)1990年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会

私たちが忍耐心に欠けるのは、神の時刻表よりも自分の時刻表に従っているからです。次のような聖句に見られる「時到りて」という言葉は、「ついには」という意味ですが、これは霊的な成長過程すべてに当てはまる表現です。

「主エノクにこの世に住める者をことごとく見せたまえり。而して、エノクは見たり、みよ、誠にシオンは時到りて天にとり挙げられたるを。」(モーセ7:21;教義と聖約38:13;創世4:3;38:12;出エジプト2:23;士師11:4;歴代下21:19参照)

 

言うまでもなく、時が経過すればそれだけで自動的に進歩できるわけではありません。しかし、私たちが天父の霊の子として本心に立ち返るためには、「時到る」必要がよくあります(ルカ15:17参照)。血を分けた兄弟でありながら長年にわたって争っていたヤコブとエサウが、砂漠で感動的な再会をしたことは、昔からよく知られている話です。寛容さが敵意に取って代わるのです。けれども、己を顧み、深く考えられるようになるには時間がかかります。霊的に成長するには、時間をかけて真理を体験することが必要であり、そのような体験こそ多くの病を癒す特効薬ともなるのです。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2026年版(BOX)