「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -324ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1テサロニケ4:18
だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。



「恵みの賜物」2015年4月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
復活祭の日曜日に,わたしたちは世界史上最も長く待ち望まれた栄えある出来事を祝います。

それは全てを変えた日です。

その日,わたしの人生は変わりました。

皆さんの人生も変わりました。

神の全ての子供たちの行く末が変わりました。

祝福に満ちたその日,わたしたちを捕えていた罪と死の鎖を御自身に受けられた人類の救い主が,それらの鎖を断ち切ってわたしたちを解き放してくださったのです。

わたしたちの愛する贖い主が犠牲をささげてくださったので,死のとげは失われ,墓は勝利を得ません。1コリント15:55モーサヤ16:8参照)サタンにはいつまでも支配する力はなく,わたしたちは「イエス・キリスト〔が〕死人の中からよみがえら〔れたこと〕により,……新たに生れ……て生ける望みをいだ〔いて〕」います。1ペテロ1:3

実に,使徒パウロが述べたとおり,わたしたちは「これらの言葉をもって互に慰め合〔う〕」ことができます。1テサロニケ4:1813-17節も参照)
 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1テサロニケ4:7
神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。


「神殿の祝福を受けるための個人の備え」2001年4月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会
ゴードン・B・ヒンクレー大管長の霊感あふれる導きの下で、今では、神殿はいつに増して身近な存在となっています。どの神殿にも、「聖きを主に捧ささぐ」出工ジプト28:36;39:30;詩篇93:5参照。)という言葉が刻まれています。この言葉は、神殿自体もその存在の目的もともに聖いことを意味しています。また同時に、神殿に参入する者も聖さという特質を身に付けていることが求められています。出工ジプト19:5-6;レビ19:1-2;詩篇24:3-5;1テサロニケ4:7;モロナイ10:32-33;教義と聖約20:69;110:6-9参照。「聖句ガイド」「聖い」の項も参照。)民に聖さを求めるよりも、建物に聖さを求める方が容易かもしれません。わたしたちが聖さを身に付けるためには、絶え間なく、地道に個人的な努力を続ける以外に方法がないからです。どんな時代であっても、主の僕(しもべ)たちは、聖なる状態からそれることの危険性について警告し続けています。ニーファイの弟のヤコブはこう書いています。「わたしは、聖さについてあなたがたに語るだろう。しかしあなたがたは、今聖なる状態ではなく、またわたしを師と見なしてくれているので、わたしは、罪の結果についてあなたがたに教えることが必要である。」2ニーファイ9:48

さて、わたしは同じ責任感から、教える必要があると感じています。神殿がわたしたち教会員のために備えられているのですから、わたしたち教会員としても神殿参入のために備える必要があるからです。

 

 

 

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1テサロニケ3:10
わたしたちは、あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに願っているのである。



「弱り果てて意気そそうしないために」(英文)1990年4月、二一ル・A・マックスウェル、十二使徒定員会
奉仕,勉強,祈り,礼拝は,「〔私たちの〕信仰の足りないところ」1テサロニケ3:10を補うための4つの基本的な事柄です。この4つの具体的な方法で信仰を養うことをやめるならば,私たちの信仰は弱くなってしまいます。

たとえば,勉強を怠ると人は知的にも霊的にも糧を得ることができなくなります。霊感にあふれた言葉は確かに重要です。なぜなら「人は信仰によって働くとき,……言葉によって働く」からです。(「信仰講話」7: 3)この荒廃しつつある世の中にあって,主は「御霊の剣,すなわち,神の言」を用いて私たちの心を貫き通すことができます。エペソ 6:17ジェロム 1:12参照)しかし,この大会で何度も言われてきたように,み言葉を聞いても,信仰とクリスチャンとしての奉仕が伴わなければ何もなりません。ヘブル4: 2参照)

「人はどうしてまだ仕えたこともなく,見も知らず思いもかけない主人を知ることができようか。」モーサヤ5: 13)

心からの祈りと純粋な礼拝の気持ちがなくなるとやはり信仰が薄れ,「苦難の日に……気落ち」するようになります。教義と聖約109: 38)

うみ疲れる原因のほとんどは,「生れながらの人」(1コリント2: 14) ,つまり堕落した状態のままでいるためです。この「肉欲に従う人」モーサヤ3:19) は,人の内にあるほかの特質とは異って,抱えているにはあまりにも重く,とても「身内」とは言えません。