「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -313ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヘブル12:1
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。



「人生というレース」2012年4月、トーマス・S・モンソン大管長
使徒パウロは,人生を,レースにたとえています。彼はヘブル人に次のように強く勧めました。「わたしたちは,……からみつく罪……をかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競争を,耐え忍んで走りぬこうではないか。」ヘブル12:1

伝道の書に記されている次のような賢明な勧告にぜひ耳を傾けていただきたいと思います。「必ずしも速い者が競争に勝つのではな〔い。〕」伝道9:11実は,終わりまで堪え忍ぶ者こそが,勝利を手にするのです。

……

子供時代に作ったそのおもちゃの舟には,安定させるための竜骨,方向舵,動力は一切付いていませんでした。そのため,船の行く先は,抵抗の最も少ない川下しかなかったのです。

そのような舟とは違い,わたしたちは行く先を導いてくれる天与の特質を身に付けています。わたしたちは人生という川の流れに,何も付けずに放り込まれたのではありません。考え,判断し,達成する力を備えて,この世に来たのです。

天の御父は,わたしたちが無事にみもとへ帰れるよう神の導きを受けることのできる手段を講じたうえで,わたしたちを永遠の航海に送り出してくださいました。その手段とは祈りです。わたしたちの心に,静かな細い声として聞こえる,御霊のささやきです。もちろん,わたしたちが立派にゴールへ到達できるよう助けるために与えられ,主の言葉と預言者の言葉が収録されている聖典も見過ごすことはできません。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヘブル11:7
信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。


「目をさましてうむことがなく」(英文)2010年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
初期の警告は,生活の多くの面で明白です。例えば,発熱は病気の最初の徴候となり得ます。金融市場や労働市場の様々な指標は,地方や国の経済動向を予測するために用いられます。また,世界のどの地域に住んでいるかによって異なりますが,洪水,雪崩,ハリケーン,津波,竜巻,吹雪などの警告を受けることがあるでしょう。

また,霊的な初期警告もあり,わたしたちの生活の中で守りや導きとなっています。思い出してください。ノアは,まだ見ていない事柄について神から警告を受け「その家族を救うために箱舟を造」りましたヘブル11:7

……

霊的な警告を受けたら警戒を強めるべきです。わたしたちは「警告の時」に生きており教義と聖約63:58,これまでも,そして今後も警告されるので,使徒パウロの勧告のように「目をさましてうむことがな〔い〕」ようにする必要がありますエペソ6:18

シオンの親が子供に関する事柄を警戒し,識別するのに役立つ,霊的な初期警告システムについて,わたしは聖霊の導きを祈り求めながら説明します。この初期警告システムはあらゆる年代の子供に当てはまり, 3 つの基本的な要素から成っています。( 1)子供と一緒にモルモン書を読んで話し合う。( 2)子供に福音が真実であるという証をごく自然に伝える。( 3)福音の学習者として,作用される者ではなく,作用する者になるよう子供に勧める。これらのことを忠実に行う親は,早い段階で子供の霊的成長や問題のサインに気づき,子供を強め助けるための霊感を受けるよう,自らをよりよく備えることができるでしょう。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヘブル11:1
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。


「信仰によって歩む」2002年4月、ゴードン・B・ヒンクレー、大管長
人生を歩む男女には疑いや失意、幻滅といった暗い時期が訪れることがあります。そのような中で信仰の光をもって先を見通す人は少なく、多くは暗闇の中でつまずき、道に迷う人もいます。

わたしの今朝の皆さんへの願いは、信仰を持つこと、パウロが「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)と説いた信仰を皆さんに持っていただくことです。

改宗の過程で求道者が教会について教わるのはわずかなことです。読むのもわずかです。教会のすばらしさのすべてを知ることはありません。それは不可能です。しかし、熱心に研究し、進んでひざまづいて祈れば、御霊がその人の心にかすかに触れます。そして正しい道が示され、その人はそれまでに経験しなかったものを目にします。意識しているか否かにかかわらず信仰によって着実な歩みを始めるのです。すると、新たな理解の光が注がれます。

昔わたしは西部山岳地帯を走る鉄道の会社で働いていました。列車にはよく乗りました。蒸気機関車の時代です。その線路上の怪物は巨大で、速く、危険でした。わたしは、機関士は夜中によく長い距離を走らせるものだと不思議に思ったものです。しかし後で、列車は長い距離を一度に進むわけではなく、短い距離を積み重ねていくことに気づきました。機関車には強力なヘッドライトが装備されていて、400ヤード(約300メートル)から500ヤード(約400メートル)先を照らすことができます。機関士が見ているのはその範囲だけです。それでいいのです。ヘッドライトは夜が明けるまで列車の前方を照らし続けてくれるわけですから。

このプロセスについて主はこう言われました。「人を教化しないものは、神から出てはおらず、暗闇である。

神から出ているものは光である。光を受け、神のうちにいつもいる者は、さらに光を受ける。そして、その光はますます輝きを増してついには真昼となる。」(教義と聖約50:23-24)

わたしたちの永遠の旅路も同じです。一歩ずつ進みます。そのようにして未知の世界を目指します。でも、信仰が行く手を照らしてくれます。信仰を養い育てれば、暗闇を進むことはありません。