「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -312ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヤコブ1:5
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。


「最高の自分になる」2009年4月、トーマス・S・モンソン大管長
アダムも祈り,イエスも祈られました。わたしたちはその祈りの結果を知っています。1羽のすずめが落ちるのも御存じの神は,心からの嘆願を必ず聞いてくださいます。この約束を思い出してください。「あなたがたのうち,知恵に不足している者があれば,その人は,とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に,願い求めるがよい。そうすれば,与えられるであろう。」ヤコブの手紙1:5

この話を聞いている,大小様々の試練と闘っている皆さんにお伝えします。祈りは霊的な強さの源であり,安らぎへのパスポートです。祈りは,わたしたちを愛してくださっている天の御父に近づく手段です。祈りの中で御父に話しかけ,答えに耳を傾けてください。奇跡は,祈りを通してもたらされるのです。

……

心を込めて祈ることを覚えてください。

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヤコブ1:3-4
あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。


「不確かで困難な時代に支えとなる信仰の力」2003年4月、リチャード・G・スコット、十二使徒定員会
神は皆さんの信仰を用いて、人格を形成されます。人格とは皆さんの今まさになろうとしている姿を映し出すものです。しっかりした道徳的な人格は、人生の試練と試しの中で常に正しい選択をした結果生まれるものです。信仰を働かせれば、そうした正しい選択ができるように導かれます。はっきり言えば、行いと思いこそ、人格を決め、将来を決めるものなのです。だからこそ、何かを選択するときには、主の霊感を受ける必要があります。他の人々が義にかなった選択ができるように励ましてくれることもありますが、そのような人々にさえ決断をゆだねてはなりません。主の教えと一致した選択が喜んでできるように、深く考え、祈り、信仰を行使する必要があります。このような選択は、自分が信じる事柄に信頼を置くときに行うことができます。またその信仰に従って行動するならば、信じている事柄が正しいと確認されるのです。人格的な成長を弱めるのではなく、正しい選択を行うために、最低限必要な導きが与えられるのです。そうした導きは、天の御父と救い主に対する信頼を強固なものにしてくれます。

信仰が築く人格的な強さは、緊急な必要に迫られたときに役に立ちます。このような人格は、大きな困難や誘惑に遭うその瞬間に培われるものではありません。そのような瞬間は、すでに培った信仰を用いなければならない瞬間なのです。人格とは、原則や教義、従順という糸を根気よく紡いでできる織物のようなものです。ヤコブの手紙にこうあります。「信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」ヤコブ1:3-4

人格の基礎は高潔さです。ふさわしい人格を持つと、御霊の導きに従順にこたえる能力が高まります。義にかなった人格こそ目指すべきものです。それは、所有物や知識、あるいはこの世のいかなる成功よりもずっと大切なものです。義にかなった人格を備えていれば、信頼に値する人になります。義にかなった人格は霊的な強さの基盤となるのです。それは、試練と試しの時にあって、困難できわめて重要な決定を正しく下せるように助けてくれます。圧倒されそうに思える場合でも、力を与えてくれます。わたしは証します。サタンもそのほかいかなる力も、あなたの人格が成長していくのを弱めたり、完全に破壊したりすることはできません。自分自身の不従順による以外には、人格の成長を妨げるものはないのです。

 

 

 

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヤコブ1:3-4
あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。


「聖徒たちの喜び」2019年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
今の時代は,服装や娯楽,性的清さに関する主の標準を守ろうとする人に対して,時に無慈悲な攻撃がソーシャルメディアの中や直接個人に行われる時代です。あざけりや迫害という十字架を負うのは,聖徒の中でも青少年やヤングアダルト,および女性や母親であることがよくあります。そのようなむごい扱いに打ち勝つのは容易ではありませんが,ペテロの言葉を思い出してください。「キリストの名のためにそしられるなら,あなたがたはさいわいである。その時には,栄光の霊,神の霊が,あなたがたに宿るからである。」1ペテロ4:142ニーファイ9:183ニーファイ12:12も参照)

エデンの園で,アダムとエバは「不幸を知らないので喜びも……ない状態にとどまって」いました。2ニーファイ2:23; モーセ5:10-11も参照)今わたしたちは責任を負える人として,罪や試練,弱さ,そのほか幸福の妨げとなるものを含め,どんな形であれ惨めな状態に打ち勝つときに,喜びを見いだします。これは弟子の道において成長を感じるときの喜び,「罪の赦しを受け,良心の安らぎを得た」ときの喜びモーサヤ4:3,キリストの恵みを通して心の広がりと成長を感じるときの喜びです。ヤコブの手紙1:5ヤコブの手紙1:23-4参照)