「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -282ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ8:8
そして暗闇の中を長い間進んだところで、わたしは、主がその豊かな深い憐れみによってわたしを憐れんでくださるように、主に祈り始めた。


「聖霊」2016年4月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
わたしの子孫たち,またわたしの声の届く限り全ての人にお伝えします。聖霊によって,わたしの家族が,個人的な啓示や,とめどなく与えられる日々の導き,警告,励まし,力,霊的な清め,慰め,そして平安を受けてきたことを証します。聖霊を通して,わたしたちは「〔キリスト〕の豊かな深い憐れみ」1ニーファイ8:8と絶えることのない奇跡を経験することができるのです。モロナイ7:29参照)

救い主が生きておられることを心から証します。聖霊の賜物を授け,この賜物を通して御自身の御心を明らかにし,わたしたちを日々支えてくださる天の御父に愛と感謝の思いをお伝えします。イエス・キリストの御名により,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ8:5-7
そして、わたしは一人の男の人を見た。その人は白い衣を着ていて、わたしの方に来て、わたしの前に立った。そして、その人はわたしに言葉をかけて、後について来るように言った。そこでついて行くと、わたしは自分が暗くて寂しい荒れ野にいることが分かった。



「天使の務め」2008年10月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
通常,天使の存在は目に見えませんが,見えるときもあります。見えても見えなくても,いつも近くにいるのです。天使は世界全体に影響を及ぼすほど大きな使命を担うこともあります。もっと個人に向けたメッセージを携えて来ることもあります。時には警告を目的とすることもあります。しかしほとんどの場合,困難なときにあって慰めを与え,何らかの形で憐あわれみに満ちた関心を示し,導くために訪れるのです。夢の中で,リーハイは恐ろしい場所にいました。自ら「暗くて寂しい荒れ野」と書いています。リーハイは天使に出会いました。「その人……は白い衣を着ていて,……わたしに言葉をかけて,後について来るように言った」1ニーファイ8:7,5-6と記しています。リーハイは天使の後について行き,安全な場所,そして最終的には救いの道へと導かれました。

わたしたちは皆人生の旅路において,「暗くて寂しい」場所,つまり悲しみや恐れ,失意といった状況に身を置くことがあります。現在,世界中の人々が,財政危機,エネルギー問題,テロリストの攻撃,自然災害などに苦しんでいます。これらのことは,個人や家族に,住む家や食糧の不安だけでなく,子供たちの将来の安全と幸せについて,また,末日の預言にある地球の行く末について不安を抱かせることになります。これら以上に深刻であり,時にこれらと関連を持つのが,倫理,道徳,霊的な事柄についての堕落です。これは,人の住む所であれば規模を問わず,家庭の内外で起きています。しかし天使は,アダムとエバ,預言者,そして世の救い主をも助けるために遣わされたように,わたしたちを助けるために今でも遣わされていることを証します。マタイは福音書の中で,サタンが荒れ野でキリストを誘惑した後,「御使いたちがみもとにきて仕えた」マタイ4:11と記しています。神御自身である神の御子でさえ,地上におられた間,天の慰めを必要とされました。ですから,天使は時の終わりまで,義にかなった人々を教え導くでしょう。後に天使となった息子のモロナイにモルモンが語ったとおりです。

「奇跡の日は終わってしまったと言えるであろうか。

天使が人の子らに現れることは,終わってしまったのであろうか。神は聖霊の力を人の子らに与えられなくなったのであろうか。時が続くかぎり,大地が存在するかぎり,地の面に救われる人が一人でもいるかぎり,神は聖霊の力を与えるのを控えられるであろうか。

見よ,そうではないと,わたしはあなたがたに言う。……天使が人に現れて教え導くのも,信仰による。……。

見よ,天使はキリストに従っており,深い信仰と確固とした心をもって,あらゆる方法で神を敬う者に自分自身を示し,キリストの命じられる御言葉のとおりに教え導いている。」モロナイ7:35-37,30

 

 

 

Angel V (2017)by Jorge Cocco Santangelo

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ7:21
そこでわたしは、兄たちのしたことをすべて心から赦し、主なる彼らの神に赦しを求めて祈るように勧めた。それで彼らは、そのとおりにして祈った。彼らが主に祈り終えると、わたしたちはまた、父の天幕を目指して旅を続けた。



「自分の十字架を負う」2019年10月、ウリセス・ソアレス、十二使徒定員会
わたしたちが試練を克服しようと努力を続けるなら,神は祝福として癒される信仰と,奇跡を起こす賜物を与えてくださるでしょう。教義と聖約46:19,21参照)自分自身ではできないことを,主は行ってくださるのです。

さらに,不当だと感じることに対して,苦々しさや怒りを抱き,気分を害し,悲しみにとらわれている皆さんにとって,十字架を負い,救い主に従うとは,このような心の状態から自由になり,平安を見いだす助けをいただけるように,このような思いをわきに置いて,主に心を向けるよう努力することを意味します。残念なことに,このような否定的な思いや感情にとらわれてしまうと,生活の中で主の御霊の影響を受けられなくなってしまいます。人のために悔い改めをすることはできませんが,それでも自分に害を与えた人に捕らわれることを拒否することによって,彼らを赦すことができます。(ニール・A・マックスウェル「悔い改め」 『聖徒の道』1992年1月号,32参照)

聖文は,救い主によって石のようなの心を取り除いて新しい心をいただくことにより,このような状況から抜け出す道があることを教えています。エゼキエル18:3136:26参照)そのためには弱さをもって主のもとに行く必要があります。エテル12:27参照)特に,毎週日曜日,聖餐をいただく神聖な時間に,主の助けと赦しを求めることが必要です。1ニーファイ7:21参照)主の助けを求め,自分を傷つけた人を赦すという困難でも大切な一歩を歩み出すことができますように。それによって自身の傷が癒され始めることを願っています。そうするなら,皆さんは主と共にある平安を得,慰めに満ちた夕べを日々過ごせることを約束します。