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「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ32:21

さて、信仰についてわたしがすでに語ったように、信仰とは物事を完全に知ることではない。したがって、もし信仰があれば、あなたがたはまだ見ていない真実のことを待ち望むのである。

 

「壊れたものを元どおりに」(英文)2006年4月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会

アンデレとヨハネは、初めてキリストの話を聞いたときに大きく心を動かされ、群集から離れて歩いて行かれるイエスの後を付いて行きました。だれかが付いて来るのを感じ取られたイエスは振り向き、二人に向かって、「何か願いがあるのか」とお尋ねになりました。二人は、「どこにおとまりなのですか」と尋ねました。するとキリストはこうお答えになりました。「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう。」翌日イエスは、もう一人の弟子となるピリポに出会い、彼にも、「わたしに従ってきなさい」という簡単な言葉をおかけになりました。ヨハネ1:35–39, 43程なくイエスは、ペテロをはじめほかの新たな使徒たちを召されましたが、そのときも同じように「わたしについてきなさい」とお招きになりました。マタイ4:19

 

……

 

では、どうすればこの変わることのない招きに従って「キリストのもとに来」ることができるのでしょうか。聖文の中には数多くの実例や方法が挙げられています。皆さんはその中の最も基本的なものをよく知っているでしょう。最も簡単で第一に行う必要があるのは、心から願うことです。これは、わたしたちが知る最も基本的な信仰の形です。アルマは、「たとえ信じようとする望みを持つだけでもよい」と言っています。「ごくわずかな信仰でも働かせようと」努め、神の約束「の一部分でも受け入れることができる」ようになれば、第一歩としては十分です。アルマ32:27「ごくわずかな」信仰であろうと、ただ信じ続けてください。まだ見てはいないけれども人生で確かに与えられるはずのものを待ち望むのです。アルマ32:21この簡単なステップを、主イエス・キリストを中心に据えて行うことこそが、主の永遠の福音の第一原則なのです。この原則は過去も将来も変わることがありません。これこそが、絶望の淵から這い上がる第一歩なのです。

 

 

 

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聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ32:15-16

まことに、自ら進んで心からへりくだり、罪を悔い改め、最後まで堪え忍ぶ人は祝福を受ける。まことにこのような人は、非常に貧しいためにやむを得ずへりくだっている人々よりも、なおさら祝福を受ける。

したがって、やむを得ずへりくだるのではなく、自らへりくだる人々は幸いである。いや、心をかたくなにすることなく、また御言葉を知るように仕向けられたり、知るように強いられたりして初めて信じるというのではなく、進んで神の御言葉を信じ、バプテスマを受ける人は幸いである。

 

「あなたは謙遜でありなさい」2016年4月、スティーブン・E・スノー、七十人

しかし,その「謙遜の谷」を通る前にへりくだることができたらどうでしょうか。アルマはこう教えています。

 

「やむを得ずへりくだるのではなく,自らへりくだる人々は幸いである。」

 

「まことにこのような人は,……やむを得ずへりくだっている人々よりも,なおさら祝福を受ける。」アルマ32:15-16

 

謙遜という偉大な特質の大切さを教えてくれる,アルマのような預言者たちに感謝しています。教会の第12代大管長のスペンサー・W・キンボール大管長はこう述べています。「謙遜さを身につけるにはどうすればよいでしょうか。わたしが思うに,謙遜になるためには,自分が他に頼って生きているということを心に留める必要があります。では,誰に頼っているのでしょうか。主に頼っているのです。そのことを心に留めておくにはどうすればよいでしょうか。それには,心を込めて,常に怠ることなく,礼拝の精神と感謝の気持ちをもって祈ることです。」The Teachings of Spencer W. Kimball,エドワード・L・キンボール編(1982年),233)

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ32:13-14

さて、やむを得ずへりくだっているので、あなたがたは幸いである。人は時々、やむを得ずへりくだっていても悔い改めようとするからである。そして、悔い改める人はだれでも、必ず憐れみを受ける。そして、憐れみを受けて最後まで堪え忍ぶ人は救われる。

わたしは、あなたがたがやむを得ずへりくだっているので幸いであると言ったが、御言葉のために自ら進んで心からへりくだる人々は、なおさら幸いであると思わないか。

 

「放蕩の果てに—家へと続く道」2023年10月、ディーター・F・ウークトドルフ、十二使徒定員会

(編者付記:ルカ書15章にある「放蕩息子」の話を話者はしています。放蕩息子の話とは、財産を浪費して苦境に陥るが、悔い改めて父のもとに帰る。父は息子を喜んで迎え、宴を開いて祝うというものです。)

 

彼を悩ませたのは,空腹だけではありませんでした。霊的に飢えていたのです。この世的な欲望に身を任せることで幸せを得られると確信していた彼にとって,道徳に関する律法は,その幸福を妨げるものでした。でもよく分かりました。そのことを知るために,何という代価を払わなければならなかったことでしょう。アルマ32:13-14参照)

 

肉体的にも霊的にも飢えが激しさを増すにつれ,彼は父親のことを思い出すようになります。こんなことをしてきたのに,助けてくれるでしょうか。父親の僕たちの最も身分が低い者でさえ,食べるものがあり,嵐から身を守る場所があります。

 

……

 

それでも,飢えや孤独,自責の念は消えることなく,ついに「彼は本心に立ちかえ〔り〕」ルカ15:17ました。

……

あなたの人生でこれまでに何が起こってきたとしても,わたしは愛する友人であり同僚である使徒のジェフリー・R・ホランド長老の次の言葉を繰り返し,宣言します。「キリストの贖い〔の犠牲〕の無限の光が届かない深みなどあり得ないのです。」(ジェフリー・R・ホランド「ぶどう園の労働者たち」2012年4月)

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)