さて、やむを得ずへりくだっているので、あなたがたは幸いである。人は時々、やむを得ずへりくだっていても悔い改めようとするからである。そして、悔い改める人はだれでも、必ず憐れみを受ける。そして、憐れみを受けて最後まで堪え忍ぶ人は救われる。
わたしは、あなたがたがやむを得ずへりくだっているので幸いであると言ったが、御言葉のために自ら進んで心からへりくだる人々は、なおさら幸いであると思わないか。
「放蕩の果てに—家へと続く道」2023年10月、ディーター・F・ウークトドルフ、十二使徒定員会
(編者付記:ルカ書15章にある「放蕩息子」の話を話者はしています。放蕩息子の話とは、財産を浪費して苦境に陥るが、悔い改めて父のもとに帰る。父は息子を喜んで迎え、宴を開いて祝うというものです。)
彼を悩ませたのは,空腹だけではありませんでした。霊的に飢えていたのです。この世的な欲望に身を任せることで幸せを得られると確信していた彼にとって,道徳に関する律法は,その幸福を妨げるものでした。でもよく分かりました。そのことを知るために,何という代価を払わなければならなかったことでしょう。(アルマ32:13-14参照)
肉体的にも霊的にも飢えが激しさを増すにつれ,彼は父親のことを思い出すようになります。こんなことをしてきたのに,助けてくれるでしょうか。父親の僕たちの最も身分が低い者でさえ,食べるものがあり,嵐から身を守る場所があります。
……
それでも,飢えや孤独,自責の念は消えることなく,ついに「彼は本心に立ちかえ〔り〕」(ルカ15:17)ました。
……
あなたの人生でこれまでに何が起こってきたとしても,わたしは愛する友人であり同僚である使徒のジェフリー・R・ホランド長老の次の言葉を繰り返し,宣言します。「キリストの贖い〔の犠牲〕の無限の光が届かない深みなどあり得ないのです。」(ジェフリー・R・ホランド「ぶどう園の労働者たち」2012年4月)