「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -168ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

3ニーファイ2:1

さて、第九十五年も過ぎ去り、民は前に聞いたあの数々のしるしと不思議を忘れ始め、またしるし、すなわち天からの不思議に次第に驚かなくなってきた。そして、彼らの心はかたくなになり、思いはくらみ、彼らはかつて見聞きしたすべてのことを信じなくなった。

 

「正しいメッセージを受け取りましたか」2004年4月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会

メッセージはごく普通には,「静かな細い声」によって示されます。その声は,聖文や現代の預言者たち,また個人的な啓示を通じてわたしたち全員に語りかけます。

 

……

 

感覚を呼び覚ますために,燃えるしばのような驚くべき経験を必要としている人々がいるかもしれません。このような経験をすると,人,状況,目的といったものの本質が突如として認識できるようになります。わたしたちはこれが霊感であることを理解しています。人生の平凡で当たり前の事柄について,真実の意味を霊感によって理解できることは,特別な賜物です。多くの人が霊感に気づきません。それは,神の「力は人々の理解では小さく見え」エテル3:5るため,あるいは「しるし,すなわち天からの不思議に次第に驚かなくなってきた」3ニーファイ2:1ためです。

 

……

 

では,霊感を受けたときにどうすればそれが分かるのでしょうか。エノスは述べています。「わたしがこのように心を込めて祈っていると,見よ,再び主の声がわたしの心に聞こえて……言われた。」エノス1:10啓示の霊の声は必ずしも聞き取れませんが,思いや感情を通じて神聖な確信を与えます。教義と聖約の中で告げられているとおりです。「あなたに降くだってあなたの心の中にとどまる聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう。」教義と聖約8:2わたしたちはその神聖な声に対する感性を養わなければなりません。

 

……

 

わたしが手にした最初のラジオは鉱石ラジオでした。特定のラジオ局の周波数に合わせるのは難しいことでした。電波受信に用いる鉱石の小さな凹凸部分に検波器の細い金属針を当て,受信できる位置を探りながら周波数に合わせていかなければなりません。その受信点からどちらかに1ミリずれただけで,電波を受信できず,雑音が入ります。長い間忍耐し,我慢し,目を凝らし,手が震えないようにすることで,わたしはあまり苦労なく鉱石上の受信点を見つけられるようになりました。

 

霊感についても同様です。神からの霊感の波長に自分を合わせ,雑音を回避しなければなりません。波長を合わせるように努めなければなりません。ほとんどの人は波長を合わせられるようになるのに長い時間を要するでしょう。わたしが中央幹部として新たに召されたとき,当時70歳代だったマリオン・G・ロムニー副管長はわたしたちにこう言いました。「わたしには,自分が御霊を受けて働いているときと,そうでないときが分かります。」御霊に導かれているときが分かるのは,崇高な賜物です。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

3ニーファイ1:29

また、レーマン人の中にも深い憂いを与える事柄があった。見よ、彼らには成人になった子供たちと年齢の進んできた子供たちが大勢いたが、彼らは独り立ちすると、あるゾーラム人たちの偽りとへつらいの言葉に惑わされ、あのガデアントンの強盗の仲間になった。

 

「与えられたもので満足する」2000年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会

しかしながら、わたしたちは与えられた環境で最善を尽くし、同時に「限界」を広げていかなければなりません。わたしたちは与えられたものの中で霊的な満足を得ることができます。パウロはこの状態を「信心があって足ることを知る」というように表現し、愛、希望、柔和さ、忍耐、従順などの資質が十分ある状態と示しています(1テモテ6:6)

 

しかし、人生には明確な限界があります。例えば地理的な限界や心的あるいは身体的な限界を味わっている人います。自分に落ち度がないのに伴侶に恵まれない人や、心から望んでも子どもが授からない夫婦もいます。また、「独り立ち」して親の忠告を拒む子や孫などといった(3ニーファイ1:29)、家族の中でのいつまでも和解できない人間関係の問題に直面している人もいます。こうした胸の痛む状況は枚挙にいとまがないのです。

 

満足とは自己憐憫なしに受け入れることです。しかし従順に堪え忍ぶならば、このような欠乏は、大きく高められた魂で埋めることができる穴のようなものにすぎないと言えるようになるでしょう。

 

中には、この世での安定した生活を突然打ち破られるような経験をする人もいます。ある人々は「一時的な」試練に襲われるだけですが、与えられたものを「受け入れる」しかない人もいます。パウロは自分の「肉体に一つのとげ」があることを「受け入れて」いました(2コリント12:7)

 

そうした現世での配分は、来たるべき世で一変すると言えば十分でしょう。来世でのわたしたちの状態を決定する、悔い改めていない罪だけが例外です。

 

したがって、与えられた制限や機会の中で満足感を育てることはわたしたちに与えられた課題です。これがうまくいかないと、使ってもらえない、期待されていない、感謝されていないといった気持ちになりますが、皮肉にも周りには用いられていない奉仕の機会が身近にあるのです。ですから、力強い天使の声のような、神が授けてくださった以上のものを求めるべきではありません。授けられた中でできることがたくさんあるからです(アルマ29:3-4参照)。さらに、与えられた環境がどうあれ、神の戒めを守ることはできるでしょう。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

3ニーファイ1:20-21

そして、預言者の言葉のとおりに、すべてのことがことごとく成就した。

そして、一つの新しい星もその言葉のとおりに現れた。

 

「主イエス・キリストへの信仰を見いだす」2004年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会

当時,反キリスト者と呼ばれた,神を信じない人の中には,救い主もその贖いも必要ないと人々に言い聞かせる者もいました。それは現代でも同じです。サムエルの預言がついに成就して「二昼一夜がまるで一日のようであ〔る〕」日が訪れました。ヒラマン14:4預言者の言葉を信じた人々の心は,どんなに大きな喜びで満たされたことでしょう。「預言者の言葉のとおりに,すべてのことがことごとく成就した。そして,一つの新しい星もその言葉のとおりに現れた。」 3ニーファイ1:20-21

 

預言者の言葉を信じた人々は,救い主がお生まれになって教え導いておられる間,主を受け入れて従うことができました。しかし,非常に献身的な信者の信仰ですら試されることがありました。十字架上で亡くなった後,救い主が墓からよみがえられたと兄弟たちが証するのを聞いても,トマスは信じることができずにこう言いました。「わたしは,……見……なければ決して信じない。」ヨハネ20:25後に救い主の御手しの釘跡に触れる機会が与えられますが,この愛すべき弟子は,「わが主よ,わが神よ」と告白します。ヨハネ20:28救い主は,そんなトマスに,信仰を持つことの意味を優しく説かれました。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は,さいわいである。」ヨハネ20:29主はわたしたちすべてにも同様に教えておられます。

 

……

 

兄弟姉妹の皆さん,キリストが最初に降臨されたときの預言は「ことごとく」成就しました。その結果として,イエス・キリストが時の中間に来られた実在の人物だったと信じる人が世界中にたくさんいます。しかし,預言の中にはまだ成就していないものもたくさんあります。この大会で,生ける預言者たちがキリストの再臨について預言し,証します。ほかの大会でもそうです。現在身の回りで起こっているしるしと不思議についても彼らは証し,キリストは確かに再臨されると教えています。その言葉を信じるでしょうか。それとも,こうした証や警告に背を向けて,証拠が示されるのを待つでしょうか。「真昼に暗闇の中を歩いている」教義と聖約95:6のではありませんか。現代の預言に照らして見ることを拒み,世の光が再び来て統治なさることを否定してはいないでしょうか。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)