「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -160ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

3ニーファイ20:1

さて、イエスは群衆と弟子たちに、祈るのをやめるように、しかし心の中で祈ることはやめないようにと命じられた。

 

「胸に燃ゆる」2024年4月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会

兄弟姉妹の皆さん,わたしは証します。神はわたしたちがささげるすべての祈りに耳を傾け,わたしたちを完成させるために描いてくださった道に従って,一つ一つの祈りにこたえてくださいます。わたしの健康回復のために多くの祈りがささげられていたのとほぼ同じ時期に,多くの人々がわたしの妻の健康が回復するように祈ってくださいました。わたしも祈りました。妻のための祈りはわたしの願いどおりにはこたえられませんでしたが,どちらの祈りも,哀れみ深い天の御父によって聞かれ,確かにこたえられたのであることを証します。祈りが期待したとおりにこたえられない理由は神のみが御存じですが,祈りが確かに聞かれ,いつまでも絶えることのない神の愛と天の時刻表に従って確かにこたえられることをお約束します。

 

わたしたちが「道理に外れた求め方をしなければ」,2ニーファイ4:35いつ,どこで,何について祈るべきかについては何の制限もありません。啓示によると,わたしたちは「絶えず〔祈る〕」ようにと言われています。ルカ21:36アルマ13:2834:27教義と聖約23:6も参照)アミュレクが述べたように,「〔自分〕の周りの人々」のために,アルマ34:272テサロニケ1:11アルマ34:21も参照)「義人の〔祈りには〕大いに力が……ある」ヤコブの手紙5:16と信じて祈りましょう。プライバシーが確保されている場合は,声に出して祈りをささげるべきです。詩篇55:17参照)それが現実的でない場合は,声を上げることなく心の中で祈りをささげるべきです。モーサヤ24:10-12アルマ34:273ニーファイ20:1教義と聖約19:28参照)祈りは「胸に燃ゆる」(「祈りは魂の」『賛美歌』83番)という歌詞がありますが,救い主御自身が言われたように,わたしたちは常に,御子イエス・キリストの御名によって父なる神に祈るべきなのです。 3ニーファイ18:19-21参照)

 

愛する友人の皆さん,祈りとは,いちばん楽しい時間であり,(「祈りは楽しき」『賛美歌』81番)わたしたちの「切なる望み」であり,『賛美歌』(英文)145番)最も簡素で最も純粋な礼拝です。アルマ33:3参照)わたしたちは個人として,家族として,またあらゆる規模の集会で祈るべきです。マタイ14:2318:19-203ニーファイ18:16,21-24,30ヒラマン3:35参照)誘惑に対抗する盾として,祈りの助けを借りるべきです。マタイ6:13ルカ22:403ニーファイ18:15教義と聖約10:5参照)祈る気持ちになれないとき,その気持ちは神から来るものではないのは確かです。神はいつも御自分の子供たちと交わりたいと切に望んでおられるからです。実際,わたしたちを祈らせまいとする試みの中には,敵対者が直接仕掛けてくるものもあります。2ニーファイ32:8ジョセフ・スミス—歴史1:15-16参照)何をどう祈るべきか分からないときでも,祈りを始めて,聖霊が祈るべき言葉を与えてくださるまで,祈り続けましょう。ローマ8:263ニーファイ19:24教義と聖約50:30参照)わたしたちが敵のために,またわたしたちを不当に扱う者たちのために祈る際には,このようなアプローチが必要と言えるかもしれません。マタイ5:44参照)

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

2024年10月総大会

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

3ニーファイ17:11,21-22

さて、イエスは、幼い子供たちを連れて来るように命じられた。

そして、イエスはこれらの御言葉を語ると、涙を流された。群衆はそのことを証した。また、イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し、彼らのために御父に祈られた。

そして、イエスはこれを終えると、また涙を流された。

 

「だれでも〔彼ら〕を……受けいれる者は,わたしを受けいれるのである」2016年4月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会

友人のマックスは8歳のときにバプテスマを受けました。彼の父親はどこの教会の会員でもなく,マックスは教会に行くか行かないか自分で決めることができました。

 

10代になって数か月間,教会に行かなくなった後で,マックスは教会に戻る必要があると感じ,ある日曜日の朝,教会に戻る決心をしました。でも,教会の入り口に近づくにつれて,その決心は弱まり,胃が締め付けられるように感じました。

 

そのとき,ドアの所に立っていたのは新しいビショップでした。マックスは彼のことを知りませんでしたし,きっとビショップも自分のことなど知らないだろうと思いました。でも,マックスが近づくと,ビショップは顔を輝かせ,手を伸ばしてこう言ったのです。「マックス,君に会えてとてもうれしいよ。」

 

「ビショップの言葉を聞いて,温かい気持ちに包まれ,自分は正しいことをしたのだと分かりました」とマックスは述べています。

 

その人の名前を知っているということは,大きな違いを生むものです。

 

「さて,イエスは,幼い子供たちを〔御自身のもとへ〕連れて来るように命じられた。……

そして……イエスは〔彼ら〕を一人一人抱いて祝福し,彼らのために御父に祈られた。

そして,イエスはこれを終えると,また涙を流された。」3ニーファイ17:11,21-22

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

2024年10月総大会

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

3ニーファイ17:9-12

さて、イエスがこのように言われると、群衆はこぞって、病気の者、苦しんでいる者、足の不自由な者、目の見えない者、口の利けない者、そのほかどんなことでも苦しんでいる者たちを伴って前に進み出た。するとイエスは、御自分のところに連れて来られた者をことごとく癒された。

そこで、彼らは皆、癒された者も健康な者も、イエスの足もとにひれ伏して、イエスを拝した。また、群衆の中を近づくことのできた者はイエスの足に口づけし、涙でイエスの足をぬらした。

さて、イエスは、幼い子供たちを連れて来るように命じられた。

そこで、彼らは幼い子供たちを連れて来て、イエスの傍らに降ろした。イエスはその真ん中に立っておられた。また、群衆は道を譲って、幼い子供たちが皆、イエスのもとに来られるようにした。

 

「モルモン書—この書物なしの人生とは」2017年10月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会

1986年にガーナのアクラにある大学に招かれて特別講演を行いました。何人もの要人と会いましたが,その中にアフリカのある部族の王がいました。講演が始まる前,この王は言語学者の通訳のみを通して,わたしと話をしました。わたしから通訳,通訳から王へと,訳されたわたしの言葉が王に伝えられました。

 

講演後,王は脇目もふらずにわたしの所に来ました。しかし,今回は通訳を連れていません。驚いたことに,王は完璧な英語-イギリス英語を話したのです。

 

王は当惑しているようでした。「君は何者なのだ」と聞いてきます。

 

わたしは答えました。「聖任されたイエス・キリストの使徒です。」

 

王は尋ねました。「君はイエス・キリストについて,どんなことを教えられるのかね。」

 

わたしは王に質問をしました。「イエスについてすでに御存じのことはありますか。」

 

王の答えから,彼が聖書を真摯に研究し,主を愛する者であることが分かりました。

 

そこでわたしは,イエス・キリストが古代のアメリカの人々を教え導かれたことを知っているかと問いかけました。

 

予想どおり,知らないとのことでした。

 

わたしは,救い主が十字架上で亡くなられた後に復活して古代アメリカの民を訪れ,主の福音を教えられたことと,キリストの教会を組織されたこと,御自身がその民の中で教えられたことを記録するよう弟子たちに命じられたことを説明しました。

 

続けて,「その記録が,モルモン書として知られているものです。これはイエス・キリストについてのもう一つの証であり,聖書と対を成す聖典です」と伝えました。

 

この時点で王は,かなり興味を持ち始めていました。わたしは振り返って,同行していた伝道部会長にモルモン書を余分に持っているかと尋ねると,伝道部会長はかばんから1冊取り出しました。

 

わたしは第三ニーファイ第11章を開き,救い主がニーファイ人に行った説教を王と一緒に読み,そのモルモン書を贈呈しました。そのときの王の言葉が,わたしの思いと心に刻みつけられています。「ダイヤモンドやルビーを贈ることもできたであろうに。しかし,主イエス・キリストについてのこの新たな知識は,何ものにも代えがたい貴い価値がある。」

 

第三ニーファイを読んで救い主の言葉の力を実感した後,王はこう宣言しました。「わたしが改心して教会に入ったら,部族全員を教会に連れて来よう。」

 

わたしは言いました。「王様,それはいけません。改心は個人の事柄です。救い主はニーファイ人の一人一人に仕え,教え導かれました。一人一人がイエス・キリストの福音の証を受けるのです。」3ニーファイ17:9-12参照)