「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -159ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

3ニーファイ20:24

まことに、あなたがたに言う。サムエルをはじめとして、彼に続いて語った預言者は皆、わたしについて証した。

 

「神の預言者」2018年4月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会

神の預言者の言葉を祈りの気持ちで研究し,注意深く,そして忍耐強く,自分の心を預言者の霊感された教えに霊的に沿わせるとき,主イエス・キリストを信じる信仰が強められることを,わたしは経験を通して知りました。 預言者の勧告を無視して自分の知恵に頼ることを選ぶなら,わたしたちの信仰は揺らぎ,永遠の観点は曇ってしまいます。皆さんが断固として預言者に従い続けるなら,救い主を信じる皆さんの信仰は増し加えられると約束します。

 

救い主はこう言われました。「預言者は皆,わたしについて証した。」3ニーファイ20:24

 

預言者は皆さんと救い主の間に立つのではありません。むしろ,皆さんの傍らに立ち,救い主に通じる道を指し示してくれるのです。預言者の最大の責任であり,わたしたちへの最も貴重な贈り物は,イエスがキリストであるというその揺るぎない証と確固とした知識です。かつてのペテロのように,わたしたちの預言者も「〔彼こそ〕生ける神の子キリスト」であると宣言しています。マタイ16:16ヨハネ6:69も参照)

 

※ヘンリー・B・アイリング管長は言いました。「もう一つの誤った考えは,預言者の勧告を受け入れるか否かの選択を,良いアドバイスを受け入れて得をするか,それとも受け入れずに今の状態にとどまるかの選択と同列にとらえることです。しかし,預言者の勧告を受け入れないという選択をすると,わたしたちが立つ土台が変わり,わたしたちは今までよりもっと危険な状態にさらされます。預言者の勧告を受け入れなければ, 後に与えられる霊感に満ちた勧告を受け入れる力が弱まるのです。ノアが箱舟を造ろうとしていたとき,それを助けようとの決断をする最良の時は,ノアが助けてくれるように求めた最初の時でした。その後は,求められては断ることを繰り返す度に御霊に対する感受性が失われていきました。そして,繰り返されるノアの警告が次第に愚かしく思えてきたところで雨が降り始めるのです。そのときはもう手遅れでした。」(「助言の中に安全を見いだす」『聖徒の道』1997年7月号,29)

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

3ニーファイ20:8

そして、イエスは彼らに言われた。「このパンを食べる者は、自分のためにわたしの体を食べるのであり、このぶどう酒を飲む者は、自分のためにわたしの血を飲むのである。その者は決して飢えることも渇くこともなく、満たされるであろう。

 

「アロン神権と聖餐」(英文)、1998年10月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会

救い主は聖餐を定めたときに、聖霊に関する教えと約束をお授けになりました。最後の晩餐として知られるその厳かなときに、イエスは慰め主すなわち聖霊の使命についてお説きになりました。慰め主は、主を証し、そのほかの真理を啓示してくださいます。イエスはまた、聖霊が弟子たちのもとにおいでになるためには、御自分が去って行かなければならないということを説明なさいました。こう言われました。「わたしが…もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」ヨハネ16:7主はよみがえった後に、「上から力を授けられるまでは」エルサレムにとどまっていなさいと弟子たちに言われましたルカ24:49。五旬節の日に「約束の聖霊」が弟子たちに「注がれた」とき、その力が授けられました使徒2:33参照)

 

同様に、救い主は新世界で聖餐を定めたときにも、約束をなさいました。「このパンを食べる者は、自分のためにわたしの体を食べるのであり、このぶどう酒を飲む者は、自分のためにわたしの血を飲むのである。その者は決して飢えることも渇くこともなく、満たされるであろう。」3ニーファイ20:8この約束の意味は明らかです。「さて、群衆は皆食べ終え、飲み終えると、見よ、彼らは御霊に満たされた。」3ニーファイ20:9

 

聖餐を受けることと、聖霊の導きの密接な関係については、啓示を通して与えられた祈りの中に説明されています。わたしたちはパンを頂くときに、進んでイエス・キリストの御名を受け、いつも御子を覚え、御子が与えてくださった戒めを守ることを証します。それをするときに、わたしたちはいつも御子の御霊を受けられるという約束を受けることができます教義と聖約20:77参照)

 

常に聖霊の導きを受けるということは、わたしたちが現世で持てる財産の中で、最も貴いものです。聖霊の賜物は、バプテスマの後にメルキゼデク神権の権能を持つ人によって授けられます。その賜物の祝福をほんとうに受けるためには、罪のない生活をしなければなりません。罪を犯すと、人は汚れた状態になり、主の御霊が遠ざかって行きます。主の御霊は「清くない宮」には住まわれないのですモーサヤ2:36-37; アルマ34:35-36; ヒラマン4:24参照)。そして、いかなる汚れたものも主のみもとで住むことができませんエペソ5:5; 1ニーファイ10:21; アルマ7:21; モーセ6:57参照)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

3ニーファイ20:2

また、イエスは彼らに、体を起こして立ち上がるように命じられた。そこで、彼らは体を起こして立ち上がった。

 

「雄々しく、並んで立つ」2000年10月、シェリー・L・デュー、中央扶助協会会長会

12歳になるころすでに身長が178cmもあったわたしは、友達の中で居心地の悪い思いをしていました。友達を見下ろせるほどの身長は、青春時代の苦痛でした。少なくともそんな理由では日立ちたくありませんでしたので、せめてもと思い、背中を丸めていたのです。必然的に母からいつも「背筋を伸ばしなさい」と注意されました。当時は背筋を伸ばしたいとは思いませんでした。しかし今はそうしたいと思っています。それは、わたしたちは皆「終わりの日に神の前に罪のない状態で立てるように」(教義と聖約4:2)、「立ち上が」り(2ニーファイ8:17)、証人となる(モーサヤ18:9参照)ようにと勧告を受けているからです。シオンで背を丸めているようにという勧告を、わたしは聖文の中に見いだしていません。それどころか、わたしたちは繰り返し、立つように、また「体を起こして立ち上がるように」と言われているのです(3ニーファイ20:2)

 

まだ10代のころは、自分の人生がほかの人の模倣をするためにあるのではないと気づきませんでした。皆さんの人生も同じです。神の女性であるわたしたちは、世のものと異なるために、胸を張っていなくてはなりません。そうするときに初めて喜びを見いだすのかもしれません。喜びを見いだすこと、そして主の使いとして雄々しくあることは、ともに直接的に結びついているのです。