「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -110ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約19:2 -3

わたしは、わたしの属する御方、すなわち父の、わたしについての御心をなし終えた。わたしは万物をわたし自身に従わせようと、このことを行ってきた。

わたしは、世の終わりに、最後の大いなる裁きの日に、サタンと彼の業を滅ぼすほどの一切の権威を保持している。その日に、わたしはすべての人をそのなした行いと業に応じて裁き、世に住む者に宣告を下すであろう。

 

「あのね,大変だったんだよ」2008年10月、クエンティン・L・クック、十二使徒定員会

回復によって明らかにされた基本的な教義の一つは,義がもたらされるためにはすべての事物に反対のものがなければならないという教えです。2ニーファイ2:11参照)この世の生涯はいつも容易に進むわけではなく,また,そのように意図されているわけでもありません。むしろ試練と証明の時期なのです。アブラハム書にはこうあります。「そして,わたしたちはこれによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」アブラハム3:25ハロルド・B・リー長老は次のように教えています。「時には,わたしたちにとって最善のものや永遠の報いをもたらすものが,その時点では最も困難なものと思えることがあります。また,禁じられていることが,しばしば最も望ましいものに思えることもあります。」(ハロルド・B・リー,The Fall of Man,セミナリー・インスティテュート教師を対象とした集会での講話,1954年6月23日)

 

小説『二都物語』の冒頭は,よく知られている次のような言葉で始まります。「それはおよそ善き時代でもあれば,およそ悪あしき時代でもあった。」(チャールス・ディケンズ『二都物語』中野好夫訳,上巻,7,新潮社)聖文は,どの世代であってもそれぞれに最良の時代と最悪の時代を経験することを明らかにしています。わたしたちは皆,善悪の戦い2ニーファイ2:15-16参照)、光と闇,希望と絶望という対照的な存在に無縁でいるわけにはいかないのです。ニール・A・マックスウェル長老は次のように説明しています。「わたしたちは瞬時に取って代わる苦楽の経験を,この短い死すべき世の最後の最後まで味わう必要があります。」(ニール・A・マックスウェル「よく堪え忍ぶ」『リアホナ』1999年4月号,12)わたしたちは,教義から,善が悪に打ち勝つこと教義と聖約19:2 -3教義と聖約133:64,悔い改め清められた者に永遠の命が与えられることを知っています。教義と聖約133:62教義と聖約14:7ヨハネ17:3

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約19:1-24

 

「贖い」(英文)1996年10月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会

贖いの苦難は、エルサレムの町を中心に起こりました。 そこで、歴史上最も偉大な愛の行為が行われました。ヨハネ3:16二階の広間を出たイエスと友人たちは、町の東側の深い谷を横切り、オリブ山に向かうなだらかな坂にあるオリーブの園に行きました。そこはヘブライ語で「ゲツセマネ」と呼ばれ、「オリーブ搾り」を意味し、オリーブをつぶして油や食糧にする場所でした。主はそのゲツセマネで、「すべての人が悔い改めて自分のもとに来ることができるように……すべての人の苦しみを引き受け」られました。教義と聖約18:11 主は全人類の罪の重荷を自ら負われ、その苦しみのためにあらゆる毛穴から血を流されました。ルカ22:44教義と聖約19:18

 

その後、主は打たれ、鞭打たれました。いばらの冠を頭にかぶせられ、さらに苦難が加えられました。マタイ27:29マルコ15:17ヨハネ19:2、5あざけられ、からかわれました。御自分の民の手からあらゆる侮辱を受けられました。主は言われました。「わたしは自分の民のところに来たのに、民はわたしを受け入れなかった。」3ニーファイ9:16 温かい歓迎ではなく、残酷な拒絶を受けられたのです。それからカルバリの丘まで自分の十字架を運ぶように命じられ、そこで十字架に釘付けにされ、激しい苦痛を受けられました。

 

やがて主は、「わたしは、かわく」ヨハネ19:28と言われました。医師にとって、これは大変意味のある言葉です。患者が出血多量でショック症状を起こすと、まだ意識があれば必ず乾き切った唇で水を求めるものです。

 

御父と御子は、この苦しみがどのようなものであるかを前もって知っておられましたが、実際には言語に絶する苦しみがもたらされました。「〔イエス〕は言われた。『アバ、父よ、あなたにはできないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。』」マルコ14:36,"Abba"はすばらしい言葉です。"Ab"は「父」を意味し、"Abba"は、この"Ab"に敬愛の情を込めた変化形です。)

 

そして、主は御父のみこころに従われました。(何世紀も後、主は預言者ジョセフ・スミスにこのときの経験を思い起こして語っておられます。その記録は、教義と聖約第19章に収められています。)三日後、預言されたとおりに、主は墓からよみがえられました。復活の「初穂」になられたのです。主は贖いを成し遂げ、すべての従順な人々が不死不滅と永遠の命を受けられるようにされました。堕落によってそれた道が、贖いによって正されたのです。

 

「不死不滅」という救い主の賜物は、生を受けたすべての人にもたらされます。しかし、「永遠の命」の賜物は、悔い改め、定められた儀式と聖約に従う人にだけ与えられます。福音に必須の数々の儀式は、贖いを象徴しています。水に沈めるバプテスマは、救い主の死と埋葬と復活を象徴しています。聖餐を取ることにより、バプテスマの聖約を新たにし、救い主の引き裂かれた体とわたしたちのために流された血を思い起こします。神殿の儀式は、主との和解を象徴し、家族を永遠に結び固めます。神殿で交わした聖約に忠実であれば、神の最大の賜物教義と聖約14:7であり、「この世に存在する目的」である永遠の命にふさわしくなれるのです。(ブルース・R・マッコンキー、『約束されたメシヤ』p.568)

 

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約19:1

わたしはアルパでありオメガであり、主なるキリストである。すなわち、わたしは初めであり終わりである者、世の贖い主である。

 

「ホサナ,ハレルヤ―生けるイエス・キリスト:回復と復活祭の中心」2020年4月、ゲレット・W・ゴング、十二使徒定員会

1836年4月3日,回復初期の復活祭の日曜日にカートランド神殿が奉献された後,生けるイエス・キリストが御姿を現されました。そこで主にお会いした人々は,炎と水という互いに補い合う対称的な言葉で主について証しました。「その目は燃える炎のようであり,その頭髪は清らかな雪のように白く,その顔は太陽の輝きに勝って光り輝いていた。また,その声,すなわちエホバの声は大水の奔流のとどろきのようで〔あっ〕た。」教義と聖約110:3

 

そのとき救い主はこう宣言されました。「わたしは最初であり,最後である。わたしは生きている者であり,殺された者である。わたしは父に対するあなたがたの弁護者である。」教義と聖約110:4ここでも対称的な言葉,「最初」と「最後」,「生きている者」と「殺された者」が使われています。主はアルパでありオメガであり,初めであり終わりであり,黙示1:83ニーファイ9:18教義と聖約19:138:145:7参照)導き手であり完成者であられるのです。へブル12:2モロナイ6:4参照)

 

 

 

Vision at Kirtland Temple, 2019 by Jorge Cocco Santangelo

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)