わたしは、わたしの属する御方、すなわち父の、わたしについての御心をなし終えた。わたしは万物をわたし自身に従わせようと、このことを行ってきた。
わたしは、世の終わりに、最後の大いなる裁きの日に、サタンと彼の業を滅ぼすほどの一切の権威を保持している。その日に、わたしはすべての人をそのなした行いと業に応じて裁き、世に住む者に宣告を下すであろう。
「あのね,大変だったんだよ」2008年10月、クエンティン・L・クック、十二使徒定員会
回復によって明らかにされた基本的な教義の一つは,義がもたらされるためにはすべての事物に反対のものがなければならないという教えです。(2ニーファイ2:11参照)この世の生涯はいつも容易に進むわけではなく,また,そのように意図されているわけでもありません。むしろ試練と証明の時期なのです。アブラハム書にはこうあります。「そして,わたしたちはこれによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」(アブラハム3:25)ハロルド・B・リー長老は次のように教えています。「時には,わたしたちにとって最善のものや永遠の報いをもたらすものが,その時点では最も困難なものと思えることがあります。また,禁じられていることが,しばしば最も望ましいものに思えることもあります。」(ハロルド・B・リー,The Fall of Man,セミナリー・インスティテュート教師を対象とした集会での講話,1954年6月23日)
小説『二都物語』の冒頭は,よく知られている次のような言葉で始まります。「それはおよそ善き時代でもあれば,およそ悪あしき時代でもあった。」(チャールス・ディケンズ『二都物語』中野好夫訳,上巻,7,新潮社)聖文は,どの世代であってもそれぞれに最良の時代と最悪の時代を経験することを明らかにしています。わたしたちは皆,善悪の戦い(2ニーファイ2:15-16参照)、光と闇,希望と絶望という対照的な存在に無縁でいるわけにはいかないのです。ニール・A・マックスウェル長老は次のように説明しています。「わたしたちは瞬時に取って代わる苦楽の経験を,この短い死すべき世の最後の最後まで味わう必要があります。」(ニール・A・マックスウェル「よく堪え忍ぶ」『リアホナ』1999年4月号,12)わたしたちは,教義から,善が悪に打ち勝つこと(教義と聖約19:2 -3;教義と聖約133:64),悔い改め清められた者に永遠の命が与えられることを知っています。(教義と聖約133:62;教義と聖約14:7;ヨハネ17:3)


