しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
「神の愛」2021年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
御存じのように,世の道は反キリストであり,「キリストでなければ何でも」よいのです。わたしたちの時代に,モルモン書の歴史が繰り返されています。カリスマ的な人物が人に対して不義な支配を続け,性的な放縦を称賛し,人が存在する目的として富の蓄積を奨励しています。彼らの哲学では「少しの罪を犯すこと」だけでなく,かなり大きな罪でも正当化されますが,贖いを与えることのできる人はいません。贖いは,小羊の血を通してでしか行えないのです。「キリスト以外」あるいは「悔い改め以外」は何でも受け入れる人たちができることは,せいぜい,罪は存在しないとか,存在するとしても最終的には何の罰もないという根拠のない主張です。この論法が最後の裁きで功を奏するとは思えません。(2ニーファイ9:46参照)
そもそも自分の罪を正当化するという不可能なことや,また一方で,自分自身の力だけで罪の影響を消し去ろうという不可能なことを試みる必要はないのです。わたしたちが信じているのは,正当化する宗教でもなければ,完全主義の宗教でもありません。イエス・キリストを通じて得られる贖いの宗教です。わたしたちが悔い改めるならば,キリストの贖いにより,わたしたちの罪は主の十字架に釘付けられ,主の「打たれた傷によって,〔わたしたちは〕いやされ」るのです。(イザヤ 53:5参照。モーサヤ14:5も参照)
