モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。
イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。
「主よ、暴風すさび」(英文)1984年10月、ハワード・W・ハンター、十二使徒定員会
私たちはだれも、人生の中で突然嵐に見舞われることがあります。中にはガリラヤ湖に吹き荒れる嵐のように、一時的ではあっても激しく、恐ろしく、人生を破壊してしまうような嵐もあります。個人や家族の生活、地域社会、国全体、教会の中にさえ突風が起こり、私たちはだれでもこんなふうに言ったことがあるでしょう。「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか。」やがて嵐がやみ、静けさの中に私たちはこのような声を聞くのです。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」(マルコ4:36-41)
自分に信仰がないと思っている人はいないでしょうが、私は主の叱責はもっともだと思います。私たちが信じると約束し、その御名を引き受けた偉大なるエホバは、こう言われました。「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ。」(創世1:6)また、こうも言われました。「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ。」(創世1:9)
さらに、紅海を分け、イスラエルの人々に乾いた地の上を歩かせたのも主でした(出エジプト14:21-22参照)。主がガリラヤ湖に荒れ狂う波に命じられたからといって、何の不思議もありません。それに、もし信仰を持っていれば、主が私たちの人生の荒波を静めてくださることを思い起こすことができます。
