それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
「望みをもって耕す」2001年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
ある聖句は主の栄光に満ちた救いをもたらす贖罪の真髄を描写しています。その中には、イエスが「その苦い杯さかずきを飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った」という、主御自身が率直に述べられた印象的な聖句もあります(教義と聖約19:18)。「無限の贖罪」は無限の苦悩を必要としていたため、主が身を引かれる可能性もあったのです(2ニーファイ9:7;アルマ34:12)。全人類がキリストの人格に依存していたことになります。ありがたいことに、主は引き下がることはなさらず、「人の子らのために〔主の〕備えを終え」られました(教義と聖約19:19)。
しかし、キリストはたぐいまれな従順さを常に示してこられました。確かに、主は終始熱心に怠ることなく御父に目を向け、「初めから、すべてのことについて父の御心に従って」こられました(3ニーファイ11:11)。「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。」(ヨハネ5:19)
この節は、わたしたちの理解を超える偉大な出来事が起こることを示唆しています。
苦悩に満ちた贖いの過程で、イエスは御自身の御心が「御父の御心にのみ込まれ」るようになさいました(モーサヤ15:7)。主権を持つ者として、最高の主権者に従う選択をすることが最高の選択です。これこそ勝利を意味する唯一の降伏なのです。生まれながらの人を脱ぎぎ捨てて 初めて、以前には体に合わなかった神の武具すべてを身に付けることができるのです(エペソ6:11,13参照)。
贖いにおいてイエスは「自分の魂を死に至るまで注」がれました(モーサヤ14:12。イザヤ53:12。教義と聖約38:4も参照)。わたしたちが時折個人的な願いに魂を「注ぎ」込むと心が空になり、さらに大きな喜びを受ける余裕ができるのです。
